■講演会印象記・・・これまでに聴講してきた講演会の印象を紹介しています
「建築楽集会98in下諏訪」報告
通算7回目の建築楽集会は2月13日(土)に下諏訪で開催され約150人が集まった。毎年県内各地を訪ねて、講演を聞いたり語り合ったりしながら楽しい交流の一時を持っているが、今年は地元茅野市出身の藤森照信氏を講師としてお招きすることができた。氏は本来東京大学で建築史を教えておられる教授であるが、その活躍分野は多方面にわたる。著作、講演、テレビ出演などで目にする機会も多いが、路上観察とか建築探偵と称するユニークな活動についても一度くらいは耳にしたことがあるのではないかと思う。
そうした中で最近は「藤森流建築術のヒミツ」というタイトル通り建築の設計にも取り組んでいる。地元茅野市の「神長官守矢史料館」、自邸である「タンポポハウス」、最近老人力という力を発見して有名になった友人の赤瀬川原平氏の「ニラハウス」、天竜市の「秋野不矩美術館」、福岡市にできた「一本松ハウス」と五つの作品が完成しており、現在は熊本で学生寮を設計しているという。どれも自然素材や伝統的工法を積極的に取り入れた現代建築と対極をなす手づくりを強調した建築で、下諏訪総合文化センターで開催された講演会では様々な工夫をスライドで披露していただいた。そのアイディア、努力、執念などどれをとっても冗談のようでもあり現代建築に対する挑戦状でもあるという不思議な魅力溢れる建築群である。講演は大きな拍手をもって終了した。
講演後の交流会は会場をホテル山王閣に移して行われた。藤森氏はどうしても時間の都合が悪く途中で帰京されてしまい残念だったが、60名をこえる参加者は大いに懇親を深めた。
毎度のことであるが、開催支部の皆さんには多大なるご尽力をいただいており、この場をお借りして心より感謝申し上げる次第です。次回もより多くの方にご参加いただきたいと思います。
(社)長野県建築士会:「建築士ながの」1999年4月1日掲載
「蓄える文化論」を聞いて
去る7月上旬、東京渋谷の電力館で開催された講演会に出席する機会を得た。チタンの薄板を張ったドーム屋根と三角形ユニットのカーテンウォールが印象的な電力館は第一工房の設計になる建築(1985年完)である。
講演会のタイトルは蓄熱空調技術という大きなテーマに関連した「蓄える文化論」ということで、講師は日本設計の佐藤信孝氏であった。一般の方々も聞きに来ていたのだろうか。内容はかなり原論的な印象だったが、パソコンのプレゼンテーション用ソフトであらかじめ作られた画面を大型スクリーンに映し出しての解説は手慣れていることもあって見やすく分かりやすかった。
講演はまず「蓄えることの意味」から始まった。地球が二酸化炭素や水を蓄えている例をあげて、自然の営み・生命体のはたらき・人間の活動などが蓄えと消費の繰り返しの波動になっていて、蓄えるということは必ず次への準備になっているという解説。ナルホドその通りだ。そして次に「歴史における蓄える知恵」。石器時代の土器は蓄える行為の原点であり、それが定住生活を可能にしてやがて生産力や文明の蓄積を促進していったと聞いてフムフム。続いて「近代における蓄える知恵」では、技術軸とスケール軸の座標の中で生活に関連した蓄えと社会基盤に関連した蓄えに分類してその内容についての説明。蓄えるということは単に節約とか経済性とかいった価値だけでなく、次の利便・保存調整・自立・高品質の確保などのためにも有効となっていることを改めて認識させられて有意義だった。最後の「蓄える計画例」においては日本設計が建築設計の中にどのように蓄えるということを実践してきたかという事例についての紹介となっており、ハウステンボス(ごみ)・長崎バイオパーク(水)・アクロス福岡(緑)・神奈川サイエンスパーク(空気)・ベイホテル東急(光)などについての解説があった。
講演の最後には、アルゼンチンの作家ホルヘ・ボルヘスの「この世界を保存することは絶えざる創造であり、保存するという動詞と創造するという動詞はこの世では争っているが、天国では同じ意味である」という言葉を紹介してくれたが、エネルギー問題を離れて建築や景観・まちづくりの話題に置き換えて解釈することもできる。結論として受け止めることもできるが同時に重要な問題提起と理解することもできる不思議な意義深い発言であった。
蓄えるという日常的な言葉や行為の中に人間の重要な知恵が隠されていることを秩序だった解説を通して改めて教えられた思いで会場を後にした。
㈱新建新聞社:「新建新聞」1998年12月4日掲載
「多重文化と建築-包容力のある社会をめざして」
JIA設立10周年記念大会に出席して 地域の建築を探ることに展望
去る9月22日(月)と23日(火)に渡って(社)日本建築家協会JIA設立10周年記念大会(同時開催:アルカシアフォーラム9)が東京有楽町の国際フォーラムを会場にして開催された。JIA長野県クラブ関係者は約20名が参加。1日目はオープニングセレモニーと基調講演+ディスカッションが行われ、2日目は様々なテーマによる分科会が行われた。パネルディスカッションは「多重文化と建築-包容力のある社会をめざして」というタイトルで、イギリス・シンガポール・日本の建築家たちによって進められた。内容が環境や都市問題というところに流れ、やや焦点が絞りきれない印象。「まちづくりの今を問う」という分科会にも参加した。これも内容はテーマからはずれたが、発言は示唆に富んでいた。「吉村順三の住宅」分科会はほのぼのとしたマニアックな世界。以下、感想を少しまとめてみた。
20世紀もまもなく終わる。日本をはじめ世界の多くの国々においては工業化社会から情報化社会への移行が浸透しつつも過渡期的な様相にあって社会情勢や価値観の変化は目まぐるしい。建築の存在や表現はその時代や地域の文化として位置付けることができるが、文化は社会あるいは政治経済の状況に従わざるを得ない宿命にあるから文化としての建築におけるイデオロギーもスタイルも解体されカオス的状況にある。20世紀初頭、工業化とともに開幕した普遍的モダニズム建築の理念も高度経済成長の終焉とともに崩壊し、カウンターとしてのポストモダニズム建築も短命に終わった。こうした状況を結果的終末ととらえるのか、あるいは21世紀に花開く新たな文化の兆候とみるのかはその時になってみなければわからない。現在はまったく方向を見失っている。アジアの建築には勢いがあるものの総じて世界的に同じような傾向といってよい。建築のスタイルはイデオロギーを離れコンセプトとやらに翻弄されて、形態だけが形骸化してのたうち回っている。新しいスタイル(様式)を構築しようと試みる建築家たちは技術や文明の最先端をリードすべくその旗手たろうと奮闘しているが多様化した事態の中ではみな飲み込まれてしまう。
地域に密着して活動している建築家の立場でこうした状況からの展開について改めて考えさせられた。私は、地域(地方)における建築家に課せられる職能とはそうした文明のリーダーたらんとすることもさることながら、むしろ自らの生活基盤である地域の文化形成のリーダーとしての活動を自覚再確認することにあるのではないかと感じている。自分が生まれ育ち、いずれそこに骨を埋めようとすれば真剣に地域と向かい合わざるを得ない。と言って地域文化にどっぷりと埋没しているだけでは建築家として次代を築くパワーを持つことはできないかもしれない。安易な地域主義に押し流されるのではなく、時代をリードする文明と地域を基盤とした文化の振幅の中でのバランス、場所のコンテクスト、企画プログラムなどを総合方程式として、地域にふさわしい建築の表現や姿を探っていくところに展望があるのではないか。バブル景気の浮かれ気分から覚めた現在、建築の未来の模索は形態遊戯から離脱し、日本文化論、風土論や人間生物論に回帰しつつあることをこのフォーラムを通して直観した。それはまだおぼろげな感触であるが、自分自身のこれからの活動やものづくりを通して確認していければ良いと考えながら帰途についた。
㈱新建新聞社:「新建新聞」1997年10月3日掲載
時代性と地域性の狭間
「風と文化デザインフォーラム」報告
去る3月14日、長野市において著名建築家を集めた講演会とパネルディスカッションが開催された。そこには「風と文化デザインフォーラム」、「ブライト信州」、「信州が生んだスター建築家たち」というタイトルが掲げられていた。このタイトルからその内容を想像するのは難しいと思っていたのだが、当日は建築関係者以外の一般の人もかなり集まったようで1000人を超える聴衆が参加し会場は熱気に満ちていた。
フォーラムは始めに村松貞次郎東京大学名誉教授による「天地(あめつち)の精をうけて」と題した基調講演が行なわれた。
続いて信州出身の4人の建築家たちによる「最近作を中心として建築文化を語る」パネルディスカッションが行なわれた。日本大学名誉教授になられた近江栄氏をコーディネーターとして、諏訪湖畔で幼少期を過ごした伊東豊雄氏、飯田高等学校OBの原広司氏、須坂市出身の宮本忠長氏、松本市出身の柳沢孝彦氏がパネラーとして登壇された。このように現代日本建築界の第一線で活躍しているメンバーが一同に長野に集結したというところが今回のフォーラムの最大の魅力になっていたと思われる。それぞれの建築家の魅力が分散してしまい散漫になってしまったという意見も耳にしたが、滅多にない機会となったのは事実であった。
各氏共長野県内に作品を残しているので、最近作と共にそれらを含めたスライド映写とトークが行なわれた。伊東氏は諏訪湖畔の赤彦記念館から仙台メディアテークまで、宮本氏は小布施町から津和野の森鷗外記念館や国民宿舎九十九里センターまで、柳沢氏は窪田空穂記念館から第二国立劇場まで、原氏は飯田での体験から梅田スカイビル・JR京都駅舎までと実に盛り沢山の内容で時間の過ぎるのも忘れるくらいであった。
□ 場所性と地域性
広く浅くならざるを得ないのは仕方がないのだが、それでもそれぞれの建築家の充実ぶりには改めて感嘆させられた。また同時に個性の違いもはっきりと浮き彫りにされた。デザイン表現の違いは一目瞭然であるが、私にはそうした表現を生み出している設計スタンスの違いも理解できたような気がした。
伊東氏の建築からは情報やメディアを転写した現代の表現を感じたし、宮本氏の建築からは地域風土に密着した土の香りを感じた。公共建築を中心とした柳沢氏の建築には強い芸術性を見ることができたし、巨大建築に立ち向かう原氏の建築には未来の都市像につながるイメージが重ねられていた。この4人の組み合わせは単にスターの同席という次元を超えて現代の混沌とした建築状況を反映しながら、正に時代性と地域性を設計の中でどのように位置付けていったらよいかについて考えさせる重大な動機になり得ていたのではないかと思う。私自身東京や大阪での設計経験を経た後、故郷信州に戻って設計活動を続けているのだが、そうした中でいつも強く意識しながら迷ったり悩んだりしている設計者としての生き方やデザインの問題について再認識させられたと受け止めている。
地方で設計を続けている立場から私たちはその地域の風土や文化に基づいた建築を追及していくことの大切さを心得ているつもりであるが、それと同時に私たちの時代や社会状況を表現することもおろそかにできないと考えている。もちろん地域性という言葉には社会的な局面も科学的な局面もあるので何をもって地域性と解釈していくかによって思考プロセスは全く違ってくると思うが、これから自分が取り組む建築に対して時代性と地域性の振幅の中でどの辺りにそれを位置付けて考えていくべきかは地域で活動する建築家にとって重要なテーマになっていると思う。
□ 建築を思考する場所
私はこの日のパネルディスカッションを通して、もしかしたら建築はその建てられる場所や環境によって決められるのではなく、その建築が思考される場所によって決定されるのかもしれないと思い始めていた。地域で設計をしている建築家はその地域の特性をよく理解しているだろう。遠くで設計をしてくる建築家は地域に対して別の理解をしていたり時代の投影をかざしてくるかもしれない。そこに表れてくる違いをただ単に建築家の個人的な感性や能力の違いとして片付けてしまうこともできるかもしれないが、作家のスタイルには建築が建てられる場所のゲニウス・ロキ的な力よりも、建築を思考している場所の社会背景を色濃く反映していると理解する方が当を得ているではないかと思われた。
私たちの建築が次代に受け継がれていく文化になるためには、「調和」と称して地域の中に埋没してしまうのでもなく、「トレンディ」な時代の表層的なデザインや思想に右往左往しながら同調するのでもない確固たる建築思考が必要だと思う。常に自分自身のスタンスを見据えながらケースに応じた柔軟な発想をしていかなければならないと感じた。
来るべき21世紀に向けて建築文化の啓蒙に資することを期待したという今回のフォーラムは、その華やかな演出の陰に潜むものをみることができた者にとっては歯応えのある内容になったのではないかと感じている。
㈱新建築社:「新建築」1996年5月1日掲載