関 建築+まち 研究室

 建築やまちについて考えてみたい方へ ・・・ いっしょに考えてみませんか ・・・

■書籍印象記・・・これまでに読んできた書籍の印象を紹介しています

■新着情報紹介
   2008・12・16   「構造デザイン講義」を読んで   を追加しました

「構造デザイン講義」を読んで

 このところ内藤廣氏が設計した建築をいくつか続けて見る機会を得た。島根県益田市の島根県芸術文化センター「グラントワ」、高知県高知市の高知県立牧野植物園「牧野富太郎記念館」、JR高知駅、静岡県御殿場市の倫理研究所富士教育センター、とらや御殿場店、とらや工房。規模も用途もさまざまであるが、一つひとつの建築をじっくりと醸成させてつくり上げていく建築家の姿がにじみ出していて味わい深い。当世流行のライトアーキテクチャーとは一線を画した堅実な建築の有り様が私にはうれしい。ボリュームやスケールや構造を消し去ることを志向してつくられていく無国籍な建築に対して、空間もスケールも質感もディテールも大切にデザインされてできあがった氏の建築は今時やや古風な作風なのかもしれないが、すなおな感動を体感させてくれる実直な建築家の一人だと思う。
 その内藤氏が数年前から東京大学の土木系コースで教鞭をとる立場になっている。そこで三年間に渡って行なわれた連続講義の記録が標題の書籍となって王国社から出版されている。あえて「構造デザイン」と言っているところが土木と建築のかけはしになっているように思われるが、氏の場合には屋根架構などの構造体を視覚的に扱っていることが多いので、このテーマに関しては打ってつけの建築家と言ってよいのではないかと思う。
 合計7回に渡る講義の内容構成は、構法による分類(総論・組積造・スティール・コンクリート・プレキャストコンクリート・木造・構造デザインの最前線)になっている。学生に向けた基礎的な講義であるので、歴史上の代表的な事例等をとりあげながら解説を行なっているが、構造の専門家とも建築史の専門家とも違う建築家の目線で語られる構造デザインに関する講義は魅力的である。氏はつねに構造に強い関心を持ってきたし、自身の設計においてもいろいろな構法や材料を積極的に採用している。建築家による講義の醍醐味は、客観的な知識伝達を旨としたアカデミックなスタンスの解説と違って、自分自身が設計してきた建築との距離感の中で構造や歴史をみていくことができるというところであろう。毎回講義室の席を埋め尽くした学生が居眠りもせず聞き入ったのは当然のことと言える。歴史好きの私には楽しく読める内容で、学生に戻ったような気持ちにさせられる。
 氏がこの連続講義を通して学生たちに伝えたかったことは何だったのだろうか。大学のカリキュラムから考えれば、構造デザインや材料に関する知識を基礎知識として身に着けておくことは必要かもしれないが、建築家の究極の目的は、むしろ構造デザインに関する既成概念や先入観といった呪縛から解き放つことであるとされている。言い換えさせてもらえば、建築や土木のようなモノづくりを志す者にとっては自分の感性を磨くことと自分自身の頭脳で考えることが重要であるということを言いたかったのだと思う。
 建築は思考の産物であるとされてきたが、最近ではコンピューターによる造形操作で建築が産み出される。そうした風潮に対して「人間の目や手を通して体得した経験や感性を決して忘れてはならない」、あるいはデザインのためのデザインと化したかのような設計手法に対して「建築は人間のためにある」ということを、内藤氏は言外に言いたかったのではないかと私には思えた。何よりも実作がそう語りかけてくれたことを思い起こす。

㈱新建新聞社:「新建新聞」2008年12月 日掲載

「失われた景観」を読んで


 景観というのは身の周りに実在する視覚世界のことであり、その意味では非常に具体的なテーマであるにもかかわらず、いざ言及するとなると抽象的な議論に陥りやすい。殊に景観に対する定義や景観における価値基準といったゾーンは一筋縄ではいかない。景観を取り扱った著作と言えば、カミロ・ジッテの「広場の造形」、ゴードン・カレンの「都市の景観」、ケビン・リンチの「都市のイメージ」、ローレンス・ハルプリンの「RSVPサイクルズ」他、ロバート・ヴェンチューリの「ラスベガスから学ぶ」、芦原義信の「街並みの美学」・「隠れた秩序」、樋口忠彦の「日本の景観」、オギュスタン・ベルクの「日本の景観・西欧の景観」、西村幸夫の「環境保全と景観創造」などを思い浮かべる。それぞれの専門分野の立場から景観が分析・研究されているが、学術的・哲学的な内容のものが多い。最近は歴史的街なみ保存に関するものも見られる。だが、身の回りの景観の現実を少しでも良くするためには具体的にどうしたらよいか、という正面切った著作は意外に少ない。
 「失われた景観」と題してPHP研究所から出版されている本書は、社会経済学・相関社会学を専攻する東京大学大学院総合文化研究科教授である松原隆一郎氏によって著されている。都市工学科を卒業しているものの現在は景観専攻ではない研究者ゆえに、むしろ身の回りの日常的な景観問題についてジャーナリスティックな視点と方法によって正々堂々と立ち向かっている。なぜ日本の景観が今日のような醜い状況になってしまったのかという着眼や景観がつくられていく(あるいは汚染されていく)仕組や制度などについての言及は、私がいつも述べていることを代弁してくれているようで小気味よい。
 最初に、蜘蛛の巣のように都市の上空を覆う架空電線類、けばけばしい看板などの生活圏における景観汚染に対する素朴で率直な苛立ちの表明から、戦後日本が経済復興・経済発展を優先する政策の中で展開してきた法律や制度が、日本中の景観(特に都市郊外)を均質で味気ないものにしてしまったという過程と原因を解説している。
 次に、神戸市と神奈川県真鶴(まなづる)町における対極的な景観施策の実態を紹介している。神戸市は「山、海へ行く」というコピーで有名な公共による都市開発を積極的に進めており、住民による「住吉川景観訴訟」を退けてきた。一方、真鶴町は小さな町であるが、バブル期に大型分譲マンションが建設されたのを契機に、「美の条例」として有名になったまちづくり条例をつくり、開発を抑え景観を守る施策を展開してきた。
 最後には、電線地中化問題を取り上げている。すでに幹線道路等では進められているが、地中化率はなかなか向上しない。私の関わるまちづくりでも同じ問題を抱えているが、実現のためには幾重にも立ちはだかる壁を乗り越えていかなければならないと感じている。
 景観に対する意識が高揚してきたと言っても、いざ景観と経済(生活)が対立した際に経済が優先してしまうケースは多い。電線を地中化する費用があるなら電気料を引き下げてほしいと言われる現実もある。景観を汚染する判断は容易だが、その状態を回復するためには計り知れない時間とエネルギーを要する。だからこそ私たちは今、景観を失わないように或いは「失われた景観」を少しでも修復していくように努力しなくてはならない。

㈱新建新聞社:「新建新聞」2003年8月22日掲載

「見る測る建築」を読んで


 建築設計が、時代の思想や技術を背景にしながらクライアントの要請を造形化するという思考のプロセスから、ゲーム感覚のプロセスになりつつあることを実感している。ゲーム感覚による表現においては知識や経験に基づかない偶然性やひらめきに負うという空ろな方法論が成立する。ある意味でコンピューターがそれを可能にした。最近の建築ジャーナリズムはそこに現出する鮮度を重視するあまり、同居している稚拙さに対しては極めて寛容だ(私には新奇と珍奇を穿き違えているように見えるのだがどうだろう)。こうした状況下においては職人的な建築家意識というのは減退せざるを得ない。ものづくりの魂をもった建築家はどこに行ってしまったのだろう?そんな考えはもう古いのだろうか?
 そんな思いでいたところに、菊竹清訓氏の事務所スタッフとして40年間に渡り師を支えてきた遠藤勝勧氏の実測スケッチとインタビューをまとめた標記の本(TOTO出版)との出会いがあった。氏は国内外を問わず、自分の赴いた先々でスケッチブックを開いてはコンベックスをあてて、ひたすら建築の実測を行い記録にとどめてきた。本の半分はフリーハンドのスケッチで埋められている。誰でも必要に迫られれば実測くらいするだろうが、プライベートなメモのように継続的にスケッチを重ねていくことは傍で思うほど簡単なことではない。この膨大なスケッチが氏の設計の中で有効に活用されていたのは間違いない。産みの苦しみの中で氏がすがった藁はこのスケッチ群であったはずである。私たちがこうした作業やこだわりに感涙するのは、ものづくりとしての魂がそこに見えるからだろうと思う。氏の発言とスケッチは私たちの建築家マインドを改めて鼓舞してくれる。
 設計とはイメージの中にしか存在しない空間を実在化するための構築方法を図として示していく作業であるが、立体としての適切なスケールを与えていくことは重要なポイントになる。すでに存在するものを測ることによって自分の設計に確信を持つことができる。実物を前にして対象に触れ、測ることによって目と手で記憶していく。実測とは言ってみれば他人のものを盗んで自分の栄養にするという作業である。創造に対して貪欲でなければできない。少しでもよいものをつくりたいと考える職人的建築家の性である。
 私たちの世代にとってル・コルビュジェやミース・ファン・デル・ローエなどの巨匠の残した建築はバイブルだった。それらを実測することができなくても限られた写真や図面から何かを盗もうと考えていた。今は建築雑誌に詳細情報が載っているので実測する必要などないとも見れるが、根底には創造に対する冷めたスタンスがある。目標や関心は建築そのものではなく、マスコミやジャーナリズムの放つ情報ソースになることにあるかのようだ。だから創造がゲームの要領に置き換わってしまったのだと思う。
 イデオロギーが霧散してしまった今、造形ゲームの流れを止めることはできないかもしれない。それでも建築に熟度を取り戻したいという焦燥に駆られる。ジャーナリズムの追求する鮮度はストックされずに消費されていくばかりである。実測、スケッチ、模型づくりなど手を使ったり体を動かしたりする作業を見なおす必要がある。どんなにデジタル化が進んでも、それは建築設計の基本ではないか。建築家の魂ではないか。

㈱新建新聞社:「新建新聞」2001年11月18日掲載

「龍安寺石庭を推理する」を読んで


 京都龍安寺。その石庭は私たちにとってあまりにもポピュラーな存在である。知らない人はいないと言ってもよいと思う。私もかつて人ごみの中で方丈の縁側に座って意味ありげな石の配列を眺めた記憶があるが、実は庭石よりも白砂の波紋のほうが印象深かった。枯山水という言葉もそのときに覚えたはずである。
 その後も慈照寺やいくつかの枯山水の庭を見ているが、龍安寺の庭は自然な石組と人工的な波紋が融合していて、別格の名庭であることを強く印象づけられた。
 この庭に多くの不思議があることは有名だが、歴史研究が専門ではない者にとって深く考える動機はない。そんな折、標記の本が集英社新書の一冊として発刊されたことを新聞で知った。
 問題はこの不思議だらけの庭がいつできたのか?どんな意図でできたのか?誰がつくったのか?ということである。歴史研究とはまさに推理小説と同じであることが理解できる。証拠になる古文書や既往の研究結果などを克明に調べ、鋭い推理力を駆使して探っていく過程は、アガサ・クリスティーやピラミッドの謎解き等と共通する。そうなると結論を述べてはならないことになるが、著者の宮元健次氏は他にも桂離宮や日光東照宮なども同じ発想で謎解きに挑戦している。日本文化と西洋文明の交流の上に自然風景式手法をこえて整形式手法を導入した庭づくりが展開されていったというのは、説得力のある着眼だと思う。パースペクティブやヴィスタ手法の導入については実際に桂離宮等の庭を見てきたものにとってほとんど違和感を感じさせない。だが研究者の推理を受け入れるとしても、心の片隅でそれが文化交流による手法導入やアレンジでなく、独自に創出された作為なのだと思いたい衝動にもかられる。
 つまり、それほどにあの小堀遠州の才能に驚嘆させられる。利休等のわびさびの世界が遠州の個人的才能によって間口も奥行きも拡大していき、その作品によって日本文化のイメージが強く形成されていることを考えれば、龍安寺石庭という小宇宙がさらに格別なものと見えてくる。

㈱新建新聞社:「新建新聞」2001年10月5日掲載

「住宅に空間力を」を読んで


 空間力といってもいったい何のことだろう?しばらく前には老人力というのもあったし、何でも力をつければいーんですか?などと考えながら本を手にとってみる。彰国社から三澤文子さんが出版した標記の本はとても読みやすそうなエッセイといった印象だった。見開きの一方が文章でもう一方が写真で統一されている。文章は1ページに一つのテーマになっていてごく短時間で読み継いでいける。そんなリラックスした感じがすでに著者つまり建築家の人柄を表しているのかもしれないと思った。
 三澤さんはご主人の三澤康彦氏と共に建築設計事務所を開設していて、あちこちの建築雑誌に明るい印象の木造住宅を発表している。この本はそうした自作を材料にして書いた新聞エッセイを中心にまとめられたものである。前半は家族のそれぞれの立場と住宅の空間について、また後半は住まい方について書かれている。サブタイトルとして「住まいかたと住むくふう」とあるがこの方が内容をよく表現していると思う。最近は木造住宅に強い関心が集まっているが、三澤さんはそうしたトレンドへのモチベーションとなった建築家の一人と言ってもよいのではないかと思う。木造住宅といっても洋間中心のモダンリビング化の進行によって大壁の中に柱や梁が隠蔽されていて骨組みが何でできているのか外から見てもわからないものも多い。それに対して三澤さんの設計するものは真壁の和風住宅のイメージの良いところを現代的に洗練させて柱や梁の木部をほとんど露出させているので、木のもっているナチュラルな魅力をダイレクトに感じとることができる。
 最近の住宅には多くのことが求められている。きちんとした施工ができていなかったことに対するカウンターとして性能や品質が強く求められてきている。長野のような寒冷地にいると性能面の要求を満たすことは重要な意味を持っている。また品質保証も資産としての住宅にとっては大切だ。だが人間の棲家である住宅がそのように数字だけで規定されていくことに対して気味悪さを感じる。それだけじゃあないよなあ、と思ってしまう。
 私がそう感じているものが、三澤さんの住宅にはあるように思う。人間臭さがある。居心地が良さそうに思う。無気力な間取り的プランニング手法だけでは実現できない空間の流動性があるし、あちこちに「小さな余裕」がある。それは木造から離れても成立する感性で、宮脇檀氏や中村好文氏などの住宅づくりに共通する知恵に満ちた住宅だと思う。多分住人は「住んでいる」ことにプライドを感じているだろうと思うし、その空間の中に「いる」ことだけですでに満足しているのではないかと思う。うまく言えないが住宅にはこうしたしみじみとした実感が大切だと思っている。性能や品質はベーシックな課題かもしれないが、それだけでは住まいとしての魅力は未完成と言わざるを得ないのではないだろうか。豊かな空間体験ができること、家族のコミュニケーションが促進されること、心が休まること等。そうした数字で表示することが不可能な空間の質を創造することが住宅づくりの目標のなかにあると思う。空間力という本のタイトルの意味がここではっきりと理解できるようになる。それはその家族の自覚と設計者の能力によって実現する。
 たくさんの一般雑誌や生活雑誌が住宅の特集を組んでいる。部屋の寄せ集めでしかないありきたりの棲家に満足しない人たちが確実に増えている証拠なのだと思う。

㈱新建新聞社:「新建新聞」2001年7月6日掲載

「光の教会 安藤忠雄の現場」を読んで


 大阪近郊の茨木市に建つ安藤忠雄氏設計の小さな礼拝堂はコンクリート打放しの単純な箱のような建築であるが、壁に切りこまれた十字形のスリットから暗い堂内に射しこむ外光によって「光の教会」と呼ばれている。数ある安藤建築の中でも、ここまで徹底して闇と光を対照的に演出したものは他にない。小さいけれど世界的に有名な教会である。完成して既に10年以上経つので目新しいものではないが、この本の企画はなかなかユニークなものだと思う。木村俊彦構造設計事務所OBの平松剛氏によって著され、建築資料研究社から出版されている。施主における計画のスタートから設計そして現場へと進んで建築が産み出されていくプロセスが、建築インサイドの視線から施主・設計者・施工者への綿密な取材を通して、迫真のノンフィクションドキュメントとして書き進められている。私たちにとっては日常的な仕事の追体験ということであるが、門外の人々に対しても建築に携わる様々な人たちの創造への情熱と粉骨砕身の努力を十二分に伝えている。外部から見ると全くわからないであろうと思われる建築という専門的な仕事の中身が、わかりやすい解説によって公開されているのはとても貴重で喜ばしい成果だと思う。また同時に安藤建築に秘められている細かくも奥の深いノウハウを垣間みることができるのも興味深い。
 著者がここでもっとも表現したかったことは、「モノづくりにかける情熱」ということだと思う。極めて少ない予算ではあるけれども、より高い次元の建築をつくりたいという安藤氏の創造に対するエネルギーは予算を超越している。また竜巳建設の一柳社長、那須現場代理人の悪戦苦闘も感動的ですらある。安藤氏はパーソナルであっても多くの人が納得可能な人間としてのストレートな感性を頼りに建築をつくることを自らの哲学にしている。その姿勢が施工に当たる人たちの心を熱くする。当然のように苦労するがその苦労が大きいほど達成感も大きい。こうしてつくられる建築には、本来の「つくる感動」がある。
 「モノづくりにかける情熱」にあふれた人が最近少なくなっていると感じるのは私だけだろうか。それは他人事ではなく自分自身の問題であるだろうけれども、20世紀の工業化という流れの中で建築が人間的な営為から離れていき、加えて最近は何事においてもクールで、モノづくりに携わる人たちにおいても情熱とか根性とか感動とかいったホットな表現や価値観は消えかけている?建築がルーチンビジネスになったら創造の価値はない。
 情熱は個人的な意識や意思の問題であるが、一方で建築をつくりあげるプロセスにおけるシステムも変化しつつある。最近は建築における品質が注目されている。もちろん品質不充分であって良いはずもなく、法律により基準化され、監理検査体制の充実によって目標達成を計っている。しかし品質確保と創造的挑戦を一致させる努力は想像以上のものになるかもしれない。またさらに設計と監理も分離されようとしている状況においては、安藤氏や私が師事した村野藤吾のように竣工にいたるまでの時間のすべてが設計であるというようなテンションの高いモノづくりの姿勢は成立しにくくなる。そこにあるのは「つくる感動」ではなく、味気ない終了感覚だけでしかないのではないかと危惧する。
 私が建築をやっていこうとした原点はどこにあったのだろうと改めて思う。やはり「つくりだす喜び」を実感したいからに他ならない。この教会のケースはそれを再確認させてくれた。喜びや愛着の伴わない建築は所詮建築文化には成りえないのではないだろうか。

㈱新建新聞社:「新建新聞」2001年2月2日掲載

「9坪の家」を読んで


 雑誌ブルータス(1999年12月1日号)で見たその小さな住宅はなぜかとても新鮮だった。単純な四角い箱のような立体で、なんだか地面の上に無造作に置かれたバラック小屋のようにも見えるのだが、大きな開口部がすっきりしていてとても強い印象を与えるものだった。「スミレアオイハウス」と名付けられていてもったいぶっている。この家が一体どうしたっていうんだろうと思った。雑誌の記事を読んでおよそのことは理解できたが、その住宅のことが表記タイトルの本になって廣済堂から出版された。著者の萩原修氏はこの家のオーナーである。まだ若い氏がなぜこの住宅を建てることになったのかについてのドキュメントというかドラマチックな物語。分類からすれば施主の立場からの住宅建築奮戦記といったところだが、単に住宅を建ててよかったとか大変だったとかいうようなものではない。なにせ9坪の住宅である(ちょっと著者の言い回しが移ってしまったみたい)。
 新宿のリビングデザインセンターOZONEで開催された「日本人とすまい・柱」展に出かけていたらその意味と経緯はすぐ納得しただろうと思うが、生憎その展覧会には行っていなかった。物語はここから始まっていたのだった。この展覧会に柱の意味を考えるためにある住宅の軸組を展示室内に展示した。それが増沢洵氏の3間×3間の住宅だったのである。増沢邸は最小限住宅と呼ばれ、戦後住宅史に残る名作である。著者はこの展覧会のディレクター。この軸組のシンプルな美しさに惚れこんでしまい、展覧会終了後にこの軸組を引きとって自分の住宅にしようと決心した。なんだかその気持ちはすごく良くわかる。気に入ったものを手元に置いておきたいと思うことは日常のなかでもよくあることだ。でもそれが住宅であることはあまりないし、そこに住んでしまおうということもまずない。
 オリジナルの住宅はまだ地上に存在しているので、この萩原邸はクローンのようなものだ。3間×3間といっても実は2階があり、総床面積は15坪である。オリジナルは当初自宅兼事務所に使われていたそうだが、吹抜に床を掛けたりして変化していった。クローン住宅は軸組だけが先にあった。生活ビジョンも土地もお金も何もないところからスタートしたという武勇談である。土地探しにも苦労するが、建築にあたっても最小限の規模と現代の生活をどうやって整合させるのか大いに苦心する。今の生活を維持しようと思えば9坪ではすまない。増築も考えるが、結局オリジナルの大きさや構成をほとんど崩さない住宅に落ち着いた。自分たちの生活をこの小さな器のなかに納める決断をした家族に拍手。
 現代の最小限住宅とはなにか。言いかえれば最小限の生活とはどんなものか。今更最小限などという基準は登場しないだろうと思うし、私たちがあえてそうしたテーマに取り組む機会はないだろうと思うが、考えさせられることは多い。私たちの生活がいかにモノにあふれているか、機能や人間の行動はどうあればよいのか、空間をどうつくればよいのか、当たり前に思っていることに潜む無駄の数々。それは直接的には個々の人間や家族の問題であるかもしれないが、視野を広げれば資源の問題や環境の問題などにも及んでくるだろう。日本人が21世紀に向けて考える入り口は小さな住宅のなかにあるのかもしれない。

㈱新建新聞社:「新建新聞」2000年12月1日掲載

「木造建築を見直す」を読んで


 信州にいると木造建築を特殊なものと感じることはない。身の回りの住宅はほとんどが木造である。しかし1960年頃から木造建築は長い間舞台を休んでいた。約20年を経て大規模の新しい木造と呼べるようなものが続々と登場し始めた。
表記の本は東京大学坂本功教授の著作で岩波新書の一冊として出版されたものだが、初心者やむしろ建築関係者でない人たちにも理解できるように平易に書かれている。日本の伝統的木造構法の考え方、世界の様々な構法の紹介、木の性質、木造住宅の耐震性を中心に、環境問題や職人問題などについてもわかりやすく説明されている。
 木造建築には燃える・腐る・壊れるなどのハンディキャップがある。大きな地震が起きるたびに耐震・耐火の限りない強化を追及してきた日本の建築状況では、出番を減らされていったのは当然だったかもしれない。しかし、それでも木造は日本の建築文化の中ですたれることなく生き続けている。多くの日本人が木造建築に対して捨てがたい愛着をもっている。だとしたら私たちは木造建築をもっと正しく理解するべきだし、復活した木造建築の火を消さないように安全な設計や適切な施工が行われるよう努めていかなければならない。「建築家は木造に手を出すな」などと言われないように、また住宅品質確保促進法ができたからといってことさら身構えるまでもなく、木造を愛する住まい手のために、大袈裟に言えば日本の建築文化を持続するために頑張っていかなければならないと思う。
 建築士の資格をとられたばかりのフレッシュな新人建築士などにはぴったりの好著と言える。

(社)長野県建築士会長野支部:「つちおと」2000年11月25日掲載

「保存と創造をむすぶ」を読んで


 「保存」は近代社会における大いなる価値観の転換であると思っている。近代という時代は絶対的な神の呪縛から解かれ、基本的に工業技術に支えられた未来志向によって成立してきた。だからあたかも遠くにゴールがあるかのように楽観的に走りつづけたし、進歩や成長にこそ価値があった。新しいものは古いものを全面的に否定することで賞賛を浴びてきた。そうした成長神話がストップした時「保存」が登場したはずだし、景観や生活や環境や福祉といった人間主体の新しいものさしが現われてきたのだった。
 吉田桂二氏による標記の著書は建築資料研究社の建築ライブラリーの第一号として発行されたものである。氏には多くの著作があるが、今回の著作はあちこちの雑誌に掲載した論文にさらに書き加えてまとめられている。内容は、最初に「保存と創造」といった概念や理念について述べられ、続いて木造住宅からまちづくりに展開する構成になっている。
 転換した価値観というのはそれ以前の価値観の直線上にあるはずがない。したがってそもそも矛盾する概念ということになる。確かに多くの人たちは保存とか復元という言葉をスタティックな状態として捉えている。機能をもった生きた建築としての生存にピリオドを打つことによって維持しようとすることが多い。文化財などの場合にはそうでないと問題になると思われる。しかし一般的な町場の建築の場合には、現代の技術や発明や文明を伴った生活スタイルがあるのだから、建築を使いながら生きのびさせるという柔軟な発想やアイディアがなければ矛盾を解決することはできない。氏はそう考えることによって両者が矛盾するものではなく一つの器の中で合一して考えられることなのだと言っている。理論だけでは抽象的になってしまうが、氏は実際に多くの設計活動のなかで実現しているので強い説得力がある。私たちのつくる建築もそうした矛盾を乗り越えないと完結しない。
 著書のなかにはないが、氏の取り組んだ小さなまちづくりの事例として茨城県の古河市にある「まくらが台」という戸建住宅団地を見学したことがある。木造住宅がいくつかのコントロールされたデザインボキャブラリー(例えば屋根形状・壁の素材や色・塀や植栽など)のなかでルーズなまとまりをもって建てられており、好感をもった。歴史性が感じられるような形に修景すれば良いという理念の実践ということになる。
 最後の部分は建築家論になっている。世の中から建築家はわがままな芸術家だと言われてしまいがちだし、実際にそう言われて当然のような人も多い。氏はそうした建築家の姿勢に対して「芸人であれ」と言っている。芸術家的或いは職人的自己満足の世界を脱し、観客の喝采(社会の評価)を得られるように至高の芸を極めていく・・・。なるほど。

㈱新建新聞社:「新建新聞」2000年10月13日掲載

「建築プロデューサー」を読んで


 大学院時代に読んだ浜野安宏氏の「人が集まる」(1974)という本は、とても印象の強い本だったと記憶している。そのタイトルも真っ赤な表紙も意表をついていて著者も得体が知れなかったが、都市生活の楽しさをコラージュした時代感覚に満ちたエキサイティングな本だった。
 鹿島出版会から出版された「建築プロデューサー」という本は、浜野氏が今日までの建築家とのコラボレーションの実態を紹介しながら、建築プロデューサーという職能の確立に向けてアピールしようとした本だといって良い。氏の名や仕事を直接知らなくても、実施されたプロジェクトを聞けば思い当たるものも多いと思う。氏がプロデュースして山下和正が設計した青山のフロムファースト、安藤忠雄を売り出すことになった神戸のローズガーデン・高松のステップ・沖縄のフェスティバル、マイケル・グレイブスを起用して外国人建築家起用の先駆けになったみなとみらい21アルテ横浜・御宿町庁舎、ジョン・ジャーディを起用した福岡のキャナルシティ、北山恒が設計した原宿のクレインズファクトリー・オムニクォーター、JR渋谷駅前交差点に面する壁面が全面スクリーンとなっていて周辺で最もインパクトのあるQ-FRONT等の名を聞けば、建築自体は知っているという人が多いと思う。
 氏に対する評価はひょっとすると大きくわかれるかもしれない。まず氏の自信たっぷりな自由人的人生観が固定した枠に先行しているという点で受け入れ難いと思う人も多いと思うし、建築プロデューサーといってもデベロッパーと変わらないのではないかとか建築家を下請けに使っているとかいうようにみる人がいないとも限らない。しかし氏はいつもトータルに事業に取り組んできた。時代を先読みしたライフスタイルの提案があって、その器として相応しい建築を実現するために相応しい建築家を起用するというストーリー。事業という全体性の中では建築というハードは構成要素の重要ではあるが一部でしかないという現実を受け止めれば妥当なプロセスと言える。氏は慎重かつ大胆に建築家を起用してきた。建築家にも才能があったのだろうと思うがプロデューサーにも見る目があった。結果がすべてを証明していると言えるだろう。書中で本物の建築プロデュースの極意も語っているが、同時にコラボレートする建築家の心得も示している。デザイン能力があっても自己主張ばかりでクライアントの事業に対して理解がない建築家が通用しないのは平常の仕事にも言えること。
 現在進行中のプロジェクトは、妹島和世設計のH&Hスタイル(原宿)、シーラカンス設計の有田陶芸倶楽部。これらも期待させてくれるが、エスタブリッシュされる前の建築家の起用も忘れないでいてくれると依然フレッシュなのだが・・。もう失敗はできない?

㈱新建新聞社:「新建新聞」2000年6月2日掲載

「てりむくり」を読んで


 今年の一月に中公新書(中央公論社)の一冊として出版されたこの本は、神社や仏閣の屋根として至るところで見慣れているあの形をタイトルにしている。あの形とは寺のイメージとして私たちの脳裏にしっかりとすりこまれているいわゆる唐破風(からはふ)のことである。サブタイトルには「日本建築の曲線」とあって、これまであまり集約されてこなかったテーマであるかもしれない。1930年代に来日したドイツ人建築家ブルーノ・タウトが著して、その後の日本建築や日本文化の解釈に多大な影響を与えることになった「日本美の再発見」(1939年)を多分に意識しているものと思われる。桂離宮に代表される数寄屋建築の中に洗練された美を発見したタウトの視線を偏見と断定し、タウトが切り捨ててしまった日本人のもう一つの美意識に光をあてようとしている。直接的な建築上の形態から切り出しているものの、その論述内容は日本人論であり、日本文化論でもある。
 タウトの目にはわびさびの世界に位置づけられる質素で直線的な建築が映っていた。それらは、千利休らの茶の湯を起点として公家や武士といった知識階層に好まれ育てられていった精神性の高い文化である。だがしかし、日本の文化にはそれだけでは言い尽くせない一面が深く広く潜伏していることも確かだと多くの日本人は感じている。庶民的な感覚で言えばタウトが通俗的として全面否定した日光東照宮のような贅をつくした豪華絢爛の世界もまた立派であり日本文化そのものである。唐破風はそもそも日本人の信仰における対峙関係において威厳のシンボルとして機能しているもので、現代においては極めてキッチュな存在として位置づけられても何の不思議もないと思うが、著者の意図は日本文化の究極の表象が唐破風と呼ばれるてりむくり曲線であるという仮説を立て、そのことを検証しようとするところにあるようだ。てりむくりの起源や日本の独自性に関する論考はなかなか周到であるが、逆さにした日本列島地図をてりむくり曲線だと言ったり、現代の社会事象を「見たて」によっててりむくりに結びつけている辺りはこちらの理解不足のせいか言及不能。
 これまでも、日本文化論は多くの人によって繰り広げられてきた。階層によったり、縄文・弥生といった類別によって論じられていたこともある。時代が縄文から弥生に移ったことによって、日本人の体質が切り替わったかのように思われるかもしれないが、実はそのどちらも現在まで私たちの血中にしっかりと受け継がれていると解釈するのがよいのだろうと思う。日本人の国民性と言われるものの中には表裏一体の二面性が存在する。だからあいまいなのだ。従って二元論的な単一の価値観で日本人を論じることはできないことのようだ。
 文中で取り上げられている私の師、村野藤吾の大阪新歌舞伎座ファサードには唐破風が壁面一杯についている。しかし一方で都ホテル佳水園はじめ随所に数寄の精神を活かした洗練されたデザインを見せる。村野一人のデザインをとっても軽快なものと鈍重なものが同時に混在している。こうした傾向は他の建築家にも見られることで、これも日本的な資質と解釈しておくべきか?

㈱新建新聞社:「新建新聞」2000年5月12日掲載

「俵屋の不思議」を読んで


 私が書店の店頭でこの本を手にしたのは、京都を訪れたら一度は泊まってみたいと思いながら今日までその機会に恵まれないでいる老舗旅館「俵屋」の本であったことと、最近マスコミを通じて報じられていたこの旅館を取り巻く景観騒動が記憶に新しく残っていたからであった。*カバーと表紙に「唐長」の京からかみ文様の中でも私が最も気に入っている四筋市松が仕込まれていることに気がついたのは不覚にも読後になってからだった。
 世界文化社から出版されているこの本は作家村松友視氏によるもので、本になる以前には同社の「家庭画法」に15回に渡って連載されていたとのこと。一つの旅館を題材に一冊の本ができてしまうというところがすごいなァと思いながら、私は書店のカウンターの前に立った。
 内容はというと俵屋を舞台にした京都の職人たちが主人公になっている。職人といっても私たちがすぐにイメージする建築関係の職人ばかりではない。もちろんそうした分野も含まれるが、食品や調度品や旅館内で働く裏方の人たちを含めた広い範囲の職人に光が当てられている。作者は建築の専門家ではないので、正直言って私たちの目からは少しもの足りないと思うところもあるが、むしろ異なった着眼点でおもしろいと思うところも感じられる。
 まずは中村外二工務店による改装に立ち会うところから始まる。俵屋という非日常世界はこの大工たちがいなければできない。そこに左官・京からかみ・畳・造園などの職人が加わって京都が世界に誇る旅館が出来上がっていく。変わったところでは「洗い屋」なる職人が登場する。高野槙の浴槽を灰汁・苛性ソーダや硫酸などで木にしみこんでいる人間の脂を洗いおとしツヤを出すという。木によって使い分けるという劇薬の配合を舌で覚えるという凄みのある方法には驚嘆する。他にも花・石鹸・寝具・正月飾りなどの旅館という舞台を演出するモノにまでこだわりの職人技が生かされている。すべてに本物で一流であるところが京都ならではという気もするが、ここでも徐々にそうした職人が減っている現実がある。
 私たちはこの本を通して職人の技や魂の素晴らしさを知ることができる。こだわりと誇りをもった姿勢に対して自然に敬意を払う。同時に俵屋の女主人である佐藤年さんの存在の大きさにも気付く。昔の旦那衆がそうであったように職人が一目置く優れた眼と感性を備えている。どちらが上か偉いかなどということは問題ではない。手を抜かず満足いくものをつくりあげようとする施主と職人の共同作業における緊張感を伴った信頼関係の素晴らしさを改めて知らされた。信頼に応えるために自らの技を磨くという態度は私たちにも通じる。
 この近くに高層マンションが建ち景観騒動が起きている。「京都」を大切にしてほしい。

㈱新建新聞社:「新建新聞」2000年1月14日掲載

「設計入札の是非について考える」を読んで


 設計入札に疑問をもつ設計者が提唱し、東京(公共建築を良くする市民の会)、大阪(設計入札はよくないと考える市民の会)、名古屋(よりよい公共建築をつくる上で設計入札はよくないと考える市民の会)で広く地方議員、弁護士、医師、作家、公務員、造園関係者などが参加した会がそれぞれ設立された。そしてこの会を基盤に表記の小冊子(全32ページ)がまとめられ、昨年5月に発行されている。内容は前半に建築家(鬼頭梓・東孝光)、大学教授(高坂謙次)、市長(中島一)によるそれぞれの問題提起があって、後半は表題の本論が展開されている。設計入札に関する運動は今や限られた設計者の範疇から良識ある市民にまで拡大しつつある。
 実は公共建築の設計委託に際しての入札に対する意見の表明や行動はこれがはじめてというわけではない。1985年ころから建築設計団体の共同によって発注者である行政の理解を求める運動が始まり、その流れは今日まで延々と続いている。公共建築における設計者の選定ということが行政・設計者双方にとって苦悩極まる懸案のテーマであることがよくわかる。高度経済成長期に設計業務の外部委託が始まりだしたということであるが、活発化する設計事務所の受注営業などの状況に対して、行政としては機会均等や公正さを維持しなければならない立場から入札方式を採用するに至ったようだ。
 小冊子は客観的に経緯や現況を整理した上で設計入札に疑問を投げかけている。真摯な設計者にとって極めて辛い方式であるというばかりでなく、そうした設計者の適性や個性が評価されない方式では住民が大切にする優れた公共建築ができないということを述べている。建築に限らずデザインや設計という作業は非常に個別性の強い目に見えない能力によってこれからのモノをつくりだそうという作業であって、完成したモノを販売しているわけではないということを考えれば、つくりだすために必要十分な時間とそれに見合う費用が保証されなければ不可能で、報酬金額の少なさで設計者が決定されるという仕組みには誰しも矛盾を感じるであろう。何でも安ければよいという世人もたくさんいると思うし、安くても良いものができる可能性はあると言われればそれもあながち外れていると言うことはできない。入札でなければあるいは入札だからこそ自分にも設計の機会が与えられると考えている設計者も実際にはたくさんいるかもしれない。しかし報酬金額が経営を圧迫するようにでもなれば必ずどこかに歪みを引き起こす。求められる機能や周辺環境や地域性をよく理解した誠意ある設計やデザインをするにふさわしい能力を選ぶ方法は本来報酬金額とは別の“ものさし”に求められなければならないということはきっと必ず理解を得られると思う。設計コンペのような過負担な方式に対して最近は建設省官庁営繕部を中心にした公共建築設計懇談会やJIA(日本建築家協会)がまとめたプロポーザル方式が少しづつ浸透してきたが、この方式も試行錯誤段階の不明朗さが多くまだ最良の方式とは言えない。
 目的とするところは計画されている建築の設計に最もふさわしい設計者を探し選ぶことである。でも問題はそのための方法だ。個人的には設計を単なる技術的な数量(技術者数や売上高など)に置き換えたランキングや競争原理ではなく、創造的な質(アイディアやデザインの能力など)に置き換えた選択原理ができればよいと思っている。最終的に誰しもが納得できる好ましい方法が見出せないかぎり入札方式はなくならないかもしれない。
 この問題を通して私たちは建築設計における行政とは何か、市民とは何か、公共とはどんなものか、創造とは何かなどの根本的テーマについて考えさせられる。私たちはそうしたテーマについて住民が大切にする公共建築をめざして発注者である行政や利用者である住民と一緒に考えていかなければならないし、同時に設計者同士が協調しなければならないことも痛感する。

㈱新建新聞社:「新建新聞」1999年2月5日掲載

「建築の前夜」を読んで


 大学院在学のころ、東京駅近くに完成した二つの建築を見た。村野藤吾の日本興業銀行本店と前川国男の東京海上ビル。前者は石張りの端正なファサードが一街区に渡り道路にぴたりと面して建っている。後者は柱と梁の骨組に打込みタイルをまとった地上100mの高層建築で、足元は皇居前の道路に面したプラザになっている。村野の感性と前川の理性の相違は好対照だった。この時、東京海上ビルの誕生にまつわる苦々しい経緯を知った。
 前川国男の作品集がないのは有名だった。死後4年してようやく作品集が出版された。そして今から2年ほど前、前川国男の論文を集約した表記の本が而立(じりつ)書房から出版された。本人が立派な人物であったゆえの出版であるが、優れた後継者や理解者の熱い思いもなければできなかった業績である。
 1930年は建築家前川国男のスタート。この年代は近代建築がまだまだ市民権を確立できていない時代であった。有名な帝室博物館コンペなどにまつわる近代建築実現に向けての発言や伝統と創造・日本と西洋等に関する論文は社会の逆風を受けながらも力強く正義感に溢れている。不屈の姿勢は建築闘士の面目躍如たるところで、建築家たるものはこうでなくちゃいけないと大いに共感する。戦後も社会的ニーズに応えるべく奮闘し、発言の内容も幅広くなっていき、設計報酬や設計施工の分離など現在にもつながるテーマにも及んでいる。1960年代に入ると初期の力強さが薄れ、嘆き苦しむ発言が目につくようになる。先の東京海上ビルは近代建築の理念を具現化したプラザをつくり、そこに高さ125mの高層ビルを建てる計画だったにもかかわらず、その推進を阻む力によって論点をすり替えられ高さを削られた(5層25m分)。発言は徐々に近代建築の反省や敗北発言に至る。前川の胸の内の思いは痛いほどわかる。1986年の死から12年経った今日の社会状況をもし前川が見れば嘆きはさらに大きいものになるに違いない。
 改めて近代建築の精神とは何だったのか、また現代建築は何を求めているのかについて考えさせられる。現代建築の薄っぺらさに不満を感じると同時に主義やイデオロギーが社会に対してどれほどの有効性があったのかとも思う。ともに社会とは無縁の自己満足の世界なのか。私たちは社会に対してどれほどの力を持ち得るのか。一方、精神を忘れた形骸化した近代建築風を世に氾濫させてきたのは一体だれだったか。私たちがいま理想とすべき建築やまちの姿とはいかなるものか。私たちは何を拠所に設計をするべきなのか。

㈱新建新聞社:「新建新聞」1999年1月22日掲載

「吉阪隆正の方法 浦邸1956」を読んで


 この本は約3年半ほど前に出版されたもので、住まいの図書館出版局の住まい学体系シリーズの中の一冊に入っている。
 吉阪隆正は私が早稲田大学に通っていた当時の教授で、当然講義を受けたこともあるし学園紛争時に理工学部長をつとめていたことも記憶しているが、私の知っている部分はほんのわずかかもしれない。って言うかァ、もっと偉大な部分がたくさんあったのだということを改めて知ることができた。
 私が見ている作品は八王子の大学セミナーハウス・アテネフランセ・生駒山宇宙科学館・長崎海星学園・吉阪自邸などであるが、どれも独特の形態で強い個性が表れている。学生当時は「住居学」を読んだり、「有形学」や「ピラミッドから網の目へ」の講義を聴いたりして刺激を受けたものだった。独特の人生哲学を持ち、早稲田精神を体現したような人であると思っていた。大学院の研究室にいるメンバーも強兵揃いであった。でも私はそのあまりにも強い個性に自分との距離を感じていた。専ら自分の力不足のせいだと思うが、村野の日生劇場も吉阪の建築も理解を超えたものに映っていた時期があった。だから大学院に進む時も吉阪の期待に反して隣の武研究室に進んだ。
 浦邸ができたのはタイトルのようにかなり古い。兵庫県の夙川に建っていて完成して40年が過ぎているが、今も吉阪の友人であったオーナーが大切に暮らしている。著者の斎藤祐子氏はU研究室の最も若いメンバーの一人であり、浦邸をはじめ吉阪初期の仕事を訪ねてレポートを行っているらしい。
 この住宅は正方形平面をダイアゴナル(斜め)に二つ並べてL型の壁柱でピロティにした住宅である。本書ではその設計に至る動機や設計の推移などについて詳しく報告しており、吉阪の極めて人間くさい方法論について知ることができる。プランの変遷や原寸図も示されており創作の立場にある人間の一人として興味をそそられる。施主とのやりとりなどもあわせて紹介されていて、スリッパを履くと服装のバランスが崩れるという理由から上下足の区別がなされていないという生活感覚も知ることができて感嘆している。
 吉阪の方法の中で特徴的なのは村野のワンマンと好対照でグループ・ディスカッションを重視した点にあるようだ。議論に参加しない人には厳しかったとある。ディスカッションとエスキースの繰り返しが全てを生み出した。
 最近出版された「DISCONT:不連続統一体」(丸善)は吉阪の全体像を650頁の中にきめ細かく著していてより詳しく理解できる。

㈱新建新聞社:「新建新聞」1998年11月13日掲載

「構造計画の詩法」を読んで


 私は建築の構造のことに長じているというわけではない。むしろよくわからないと前置きしておいた方が良いと思っている。ただ、デザインをしている立場からデザインと構造の関わりには強い関心を持っている。
 一言で言ってしまえば構造とは建築を三次元の空間とするために必要な方法である。だがその一言の中に含まれた一言では言い尽くせない多種多様さが構造計画の魅力である。同じ平面でも空間化するための方法はいくつもある。材料や施工技術の選択によって大きく違ってくるし、同じ材料や技術を用いてもその方式のアイディアによってまったく変わってしまう。建築に対する評価において構造はもはやデザインと同等の比重を持っている。
 私たちは構造(架構)の考え方やその美しさによって感動する建築がたくさんあることを知っている。ギリシャのパルテノン神殿、パリのノートルダム寺院、フェリックス・キャンデラによるHPシェル建築群、丹下健三と坪井善勝による代々木屋内競技場やフライ・オットーによるミュンヘンオリンピック競技場などの吊り屋根建築、レンゾ・ピアノやノーマン・フォスターと組んだオブ・アラップによるハイテク建築群、ピーター・ライスが開発したラ・ヴィレット科学産業博物館のDPG工法ガラススクリーンやルーブル美術館のガラスピラミッド等を見た時私たちの目は釘付けになってしまう。そしてそれらの多くが優れた建築家と優れた構造設計家のコラボレーション(共同作業)の結果できあがっているということを知ることができる。
 多くの優れた構造設計家の中で最近注目されている人が木村俊彦氏の事務所から独立して松井源吾賞を受賞している佐々木睦朗氏である。住まいの図書館出版局の住まい学体系のなかの一冊として刊行された表記の本は氏が自ら関わったプロジェクト(鈴木恂のアトリエ、齋藤裕のしゅん居、妹島和世のマルチメディア工房、伊東豊雄のせんだいメディアテーク等)の構造計画についての紹介を主体とした内容になっていて高度な計算の説明部分などもあるが、その柔軟なアイディアには恐れ入るばかりである。「構造計画の詩法」とはなんと適切なタイトルか。ユニークな架構に対する解説を知ることによって、優れた構造に支えられた建築は詩になり得るのだと改めて実感した。このような構造設計家がいなければ現代建築の決定的なイメージも成立しないのだろう。しかし私は方向違いにも佐々木氏自身の素晴らしさよりも彼と一緒に建築を設計している建築家たちを羨ましいなどと思ってしまったのだった。

㈱新建新聞社:「新建新聞」1998年9月18日掲載

「カメラマンからカワラマンへ」を読んで


 5月の週末、10人程の仲間と淡路島へ一泊旅行。明石大橋が開通して本州からも容易に島へ渡れる。目的は安藤忠雄氏の「水御堂」と最新作である「TOTOセミナーハウス・シーウィンド」を訪ねることと、この島で瓦を焼いている山田脩二さんに会うことだった。気さくな人とは聞いていたが、私にとっては面識もなく雲の上にいるようで気おくれしていたのだが連絡をするとあっさりOKの返事。島のはずれの真っ黒に塗られた自宅を訪問した。(この旅行自体の内容は建築士会長水支部会報つちおと参照)
 山田さんは喋り出したら止まらない、実に楽しい人であった。瓦工場を見てから自宅に上がり込んだ。そこでまずはスライド会。たくさんの瓦の写真を通して私の中に山田さん像がどんどん焼き付けられていく。それからビールを飲みながらの懇談。といっても実は山田さんの独演会。そして最後に出てきたのが表記の本。筑摩書房から出ているこの本は山田さん自身の著作。
 山田脩二という名を知っている人はどんなふうに知っているだろうか。氏はかつてカメラマンだった。私が東京に行き早稲田大学で建築に目覚めた頃、学生たちが食い入るように見ていた雑誌が「都市住宅」や「SD」などであったが、その「SD」には芸術的被写体としての建築ではなく、身の回りにある現実的な風景と人の群れが重ねられた都市の写真が掲載された。方向の定まらない学生としては一方で「GA」を発刊し始めた二川幸夫氏のような崇高な建築写真にも憧れていたが、もう一方ではどっぷりと現実に浸った生々しくドギツイ写真にも強くひかれた記憶がある。時代はまさに列島改造の高度経済成長の最中であった。山田さんの写真の中に写っている「日本村」の風景にはその時代独特のスピード感がある。そのことを懐かしく思う。私自身も大学院修士論文では「都市生活の質に関する考察-俗悪考」に取り組んだ。恐らく山田さんが写しておきたかったものと同じような大衆のエネルギーに強い魅力を感じていたのだろうと思う。私にとっては磯崎新のマニエラ論より大衆のキッチュな生活そのものの方が重要な課題のように思われたのだ。この本は懐かしさを超えて私を青春時代そのものへ導いてくれた。
 氏は途中からカメラマンをやめ、淡路島に住んでカワラマンになった。それ以後長谷川逸子や象設計集団などとともに建築創作の世界にも踏み込んで瓦産業振興に一役買っている。「私たちがいくらいい瓦を焼いてもいい日本の風景ができないのはなぜか?」という問いには返す言葉もなかった。

㈱新建新聞社:「新建新聞」1998年9月11日掲載

「家をつくるということ」を読んで


 昨年末にプレジデント社から出版されたこの本が今では(1998年3月末頃)なんと10万部を超すベストセラーになっているらしい。著者の藤原智美氏は6年ほど前に「運転士」という作品で芥川賞を受賞した今年43歳になる小説家である。そのタイトルには「後悔しない家づくりと家族関係の本」というコピーがある。建築や住宅の専門家ではないが、かの小説発表後の読者からの手紙によって家族と住宅の関係に興味をもったのがこの本の誕生のきっかけらしい。住宅を建てるためのノウハウ集のような手軽な住宅本が氾濫するなかで、この本はあえて住宅のあり様といった重いテーマを扱っている。こうした類の本がこれから住宅を建てたいと考えている人たち(だろうと思う)を中心に熱心に読まれているとすればそれはとても良い状況に違いない。
 一般的な言い方と断っておくが、住宅を建てるとなるといきなり実体としての建築(ハード)の話になってしまうことが多い。予算は?規模は?構造は?間取りは?等々。技術的な面だけ見ればそれで必要十分かもしれない。しかしその住宅でどんな人たちがどんな関係でどんな生活を営むのかといったビジョン(ソフト)については住宅づくりの核心であるにもかかわらず充分に交わされていないというのが実態なのではないか。
 世の中がいくら広くても同じ家族は二つとない。家族構成タイプや世代等が同じでも家族一人ひとりの個性や生活スタイルは同じであるはずはないのだから・・。平均的家族像などというものはなく家族はすべて“スペシャル扱い”だというのが私の持論である。にもかかわらず世の中にはそうした事実を無視した器が安易に生産されている。家族はその違いを押し殺して器に合わせて暮らしているのである。家族関係や生活のビジョンといったソフト面における違いを正しく認識するところから家づくりがスタートするのだという最も当然で最も重要なことを忘れてはならないと言っておきたい。
 著者はモデル住宅を見ることから始めたが、そこに家族の虚像が投影されていても家族が解体されていることや誰もそのことについて深く考えていないことに気付く。そして家をつくるということは取りも直さずどんな家族関係をつくるのかというビジョンを言葉に置き換えた思考を通して描くことが重要であると結論している。これからの家族関係は情報化個人化によってさらに分断されていくかもしれない。設計者の立場にあってもそうした社会状況を正確に見極め柔軟に対応した家づくりを心がけていかなければならない。

㈱新建新聞社:「新建新聞」1998年7月3日掲載

「中野本町の家」を読んで


 この家が完成したのは私が就職して間もない頃の1976年(新建築7611掲載)のことである。この家の設計者である伊東豊雄氏もまだ住宅を中心に活動していた。「中野本町の家」は篠原一男氏の影響を感じさせる抽象的な白い空間であったが、そのU字型のユニークな平面によって衝撃を与えた氏初期の代表作である。同年完成して話題になった安藤忠雄氏の「住吉の長屋」と共に1970年代の建築状況を代表する住宅の一つと言える。
 その家が約20年経った昨年の2月に地上から姿を消した。後から隣接して建築された「シルバーハット」が取り残された。住まいの図書館出版局の住まい体系シリーズとして発行されたこの本は、解体を目前にしてクライアントであり設計者の姉である後藤さんと二人の娘さんたちに対して行われた個別インタビューを収録したもので、解体に至るまでの家族の事情や心理状況などが私的な発言を通して伝えられている。スクラップアンドビルド的な感覚でいえば、築20年で解体される住宅だって多い。しかしこの場合は次の建設のために安直に解体されたわけではない。微妙な心理は計り知れないが、家族にとっての理由は父親を亡くした家族が子供の成長によって当初求めていたであろう目的を果たし住まなくなったことによる住宅としての存在意義の消滅であり、語られた言葉によって人生を演じるステージとしての住宅の存在や価値または空間やイメージとは何かそして設計者のコンセプトが建築という表現を介して生活にどんな影響を与えているのかといった根源的な問題について考えさせられる。ベルリンで行われたヴァーチャルハウスという企画(ANY19・20号、インターコミュニケーション24号(共にNTT出版)に掲載)のために実施されたビデオインタビューがもとになっているのだが、そのビデオを見て伊東事務所のスタッフが言った「これから建築をつくるのがこわくなる」という発言には重いものを感じざるを得ない。
 私たちは住宅を設計するときにどのような思いで設計しているだろうか。クライアントの機能的経済的ニーズに対する答えを出そうとしているときはクライアントのためを考えているが、断片的な要素を繋ぎあわせて建築化しようとするときは自らの固有な空間論理を主張している。それがなければ建築にはなり得ないのだが、住む人たちの人生や精神生活にとって住宅とは何なのか或いはそのデザインがそれらにどんな影響を及ぼしているのかには無頓着であるかもしれない。建築の創造の奥深さに改めて心を揺さぶられる。

㈱新建新聞社:「新建新聞」1998年6月26日掲載

「我輩は施主である」を読んで


 住宅設計は多くの建築設計者にとって関心の高いものとなっている。住む人たちの顔が見えるし確実な手応えがあるから真剣勝負の緊張感があって思い入れも深い。だから建築としての規模は小さいけれど設計者としての熱い思いを語ったり解説をする機会も多い。それに比して建築主が自ら語るという機会はあまり見受けない。施主という立場から設計者という存在をどう思っているのか、また自分が家を建てるということがどんなに大変だったのか、あるいはどんなに楽しかったのか等について表立って発言することは少ない。でも設計者にとってはケッコウ興味津々の部分でもある。
 ここに昨年の夏に読売新聞社から出版された「我輩は施主である」というとっても楽しい本がある。世に有名な「ニラハウス」の施主である赤瀬川原平氏が自宅建設にまつわる顛末を小説仕立てに書いている。この住宅はあの「神長官守矢史料館」や「タンポポハウス」の設計者である藤森照信氏の設計になるもので、モダンデザインの潮流から外れた野蛮ギャルド!ぶりで日本芸術大賞を受賞した愉快作である。施主が語ったという行為自体が先に述べたようにユニークなのだけれど、作中A瀬川氏は施主として誰もが経験すること、またF森教授という個性豊かな設計者と屋根にニラが植えてあるという野蛮建築ゆえにした特別な体験などを語っていてユニークな内容だ。一般的な住宅づくりに当てはめるには無理な部分も多いが、施主が設計者とともに主体性をもって参加していく姿勢は感嘆でもあり痛快でもあった。
 氏の発言を通して改めて施主に対して設計者または施工者はどう臨むべきかということを考えさせられた。本来施主の喜びでなければならない住宅づくりが時として施主をないがしろにして設計者や建設会社の喜びでしかないというケースもありはしないかとふと思う。設計者は自分勝手なイメージを言葉巧みに押しつけて施主を困らせていないか。施工者はより多くの利益を求めて施主を苦しめていないか。住宅は最終的には住む人のものである。設計者や施工者にとって専門知識や技術を駆使して施主のプライドと夢を実現することが職能上の使命であるはずだ。互いに高めあう共同作業がなければならない。施主が私たちに期待し私たちが施主に応えなければならないことはそこにある。信頼感を絆とした施主と設計者と施工者の関係が望ましい。施主たちが設計者や施工者たちとの共同作業の内容や必要性を語り始めることによって、次に生み出される住宅が幸福な住宅になることを期待したい。

㈱新建新聞社:「新建新聞」1998年6月12日掲載

「妹島和世読本1998」を読んで


 こんな言い方をすると年寄りくさく思われてしまいそうだけれど学生の頃「建築家は50~60歳になってようやく一人前だ」と聞かされてウーンなるほどそういうものかと思っていた。しかしいつの頃からかかなり若い人たちが建築家として活躍するようになった。そうした中で妹島さんは群を抜いた存在だ。まだまだ赤丸急上昇中といった感じでかつての安藤忠雄氏に抱いていたような感嘆と似たものを感じているのは私だけではないと思う。
 最近ADAエディタトーキョーから出版された表記の本は、今日までの彼女の歩みや設計事情といったようなものをインタビュー形式で語らせたもので、彼女の人柄がにじみ出ている。雑誌に掲載される彼女の作品にはそのたびに衝撃を与えられてきたが、飾りたてない等身大の人間像を見せられるとかつて教えられてきたような巨匠建築家とかスター建築家といったイメージとはだいぶちがうように感じる。ごく普通の家庭に育って建築に憧れ、一生懸命学んで苦労してきた様子は私たちと変わりないようだ。仕事がなくて惨憺たる思いを経ながらも学生のように屈託なく創作していく姿や気さくな人柄は新しいものに挑戦していく設計姿勢と相まっていつまでも初々しい。
 安藤氏にしても妹島さんにしても、挑戦する建築家の姿勢を見ると自分自身の設計姿勢について反省させられることが多い。近代建築はかつて機能等の合理性を武器に様式建築を克服して新しいスタイルを打ち立てたけれど今や私たちはその結果としてのパターン化した手法の中で無自覚な再生産を繰り返しているにすぎないのではないか。生活・情報・生産・流通・消費などの社会状況が日々刻々と変化する中で建築の機能等も複雑化し、それに対する回答としての建築には平面や空間のストラクチャー自体を問われてくることも多い。中心的な核のないフラットな平面構成をテーマとし、立面には関心がないという彼女の方法の核心もこの辺にあると思う。若い世代の建築家たちはそうした状況に敏感で、やや強引ではあってもそこに自らの活路を見出そうとしている。かつて建築は職人芸的な密度や味わいを誇っていたが、今の建築は全体性に関わるアイディアやインプレッションが大切にされる。熟度ではなく鮮度を求める設計手法がどのように展開していくのか興味深い。
 不景気な話題ばかりで21世紀目前といった威勢のいい言葉も聞こえてこないが、新たな展開の気配を感じさせる自然体の建築家に期待したい。まもなく着工する飯田市のO資料館も私にとっては楽しみな建築の一つである。

㈱新建新聞社:「新建新聞」1998年4月3日掲載