関 建築+まち 研究室

 建築やまちについて考えてみたい方へ ・・・ いっしょに考えてみませんか ・・・

■自作解説記・・・これまでに書いてきた自作に関する解説を紹介しています

N.T.HOUSE

楽しい記憶を醸成する住まい


 子育て時期にある家族にとって、「住まう」ということは「育てる」ということに他ならない。家を建てる目的は、“子育てのための器”をつくるということに集約される。
 北信濃の地元の木をふんだんに使って建てられたこの家には、子育てに対する親の思いが詰まっている。設計にあたっての要望を要約すれば、民家のように重量感があって懐かしいイメージが息づいている家であること・家全体に遊び心が散りばめられていること等であった。虐待が頻発し家族崩壊と言われるような昨今にあって、我が子が健康で情感豊かに育つための記憶装置としての家を建てたいという素朴で暖かい親としての愛情が感じられた。設計者に期待されたのは、『楽しく住まえる』家の提案ということであった。
 そこでイメージしたのは、親子がいっしょにいるシーンであった。団欒でも食事でも遊びでもかまわないが、会話と笑いにあふれる居住空間をつくりたいと考えた。プランニングのキーは個室のあり方であろうと考え、個室をカプセル化せず睡眠という最小限の機能空間に抑え、親子が共有して学び遊べるマルチスペースを設けた。畳敷の茶の間には子どもたちが親の近くで遊べるファミリースペースを併設した。茶の間とマルチスペースを吹抜で結びつけることによって、どこにいても家の中の人の動きや気配を感じ取ることができるようになっている。柱・梁・床・天井は節だらけの木が露出したままであるが、そうした粗野な感性のインテリアや、そこで積み重ねられる“人と木のスキンシップ”も、子どもたちにとってかけがえのない原風景・原体験となるのではないかと思う。
 この時代ゆえ、幼少期の「楽しく住んだ」経験や記憶こそが貴重であると言わざるをえないのではないか。

(社)日本建築士事務所協会連合会:「ArgusEye」2008年2月10日掲載

須坂市ふれあい館まゆぐら

THE転用


 須坂市は、善光寺や冬季オリンピック競技大会の開催で国際的に知られるようになった長野県長野市の東に隣接している。北信濃の菅平高原から千曲川にかけて広がるこの町は、明治初期から昭和初期にかけて養蚕業、製糸業によって栄えていた。時代の変遷によって産業も移ろい、現在は残された繭蔵などからかつての繁栄をたどれるのみである。
 一方、須坂市は平成6年度から国土交通省認定の街なみ環境整備事業に取り組んでおり、「歴史の脈打つ街―街なみ保全と住環境の向上―」をテーマに、市内中央地区に多く残されている土蔵づくりの建物や街なみ・文化を活かしたまちづくりや景観整備を進めている。「信州須坂町並みの会」という民間まちづくり団体も活発に活動している。
1 転用の理由
 県立須坂病院の脇にひっそりと残されていた繭蔵は、明治時代初期に建てられたもので、間口4間・桁行10間の木造3階建という大きな蔵であった。繭蔵としての機能が終了して以後、道路拡幅のため一部削り取られたり改造されたりしていた。屋根の傷みが軽かったため、小屋組は原形のままであった。繭蔵なので梁などの構造部材は細く、胴差も筋交もなかったが、壁土の中に塗りこめられた貫(ぬき)によって幾多の地震に耐えてきたものと思われる。外壁の腰は土塗だったので、雨雪によって柱脚や土台は損傷が進んでいた。基礎の一部は石表面を丸く孕ませた独特の「ぼたもち石積」になっていた。
 この蔵の上に計画された都市計画道路(新国道406号)が施工されることになった時、蔵の扱いが問題になった。都市計画推進のためには撤去しなければならないが、街なみ環境整備事業に取り組んでいる行政としては、この蔵を別の場所に移築して生活環境施設(街なみ休憩所)として転用再生することを検討した。
2 転用の効果
 元の場所から約150m離れたところに繭蔵の移築先の候補地があった。その敷地は、須坂クラシック美術館・笠鉾会館をはじめ蔵づくりの民家などが並ぶ、須坂市のまちづくりの顔と位置付けられる現国道406号に面していた。移転の方法として解体と曳屋が検討されたが、整備途中(仮舗装状態)の都市計画道路を通って曳けば、現状の姿を保持したまま移築できることがわかったため、転用再生のための条件が整えられた。
 街を訪れた人たちが立ち寄って休憩するという新しい機能に生まれ変わるため、移築した後、蔵は全面的に改修された。屋根回り・外壁・窓回りの崩れ落ちていたところは補修され、構造部材は補強され、内部もすっかり様変わりした。元の入口に使用されていたけやきの一枚戸や格子戸などは損傷していなかったので、そのまま再利用している。
転用再生された蔵は蔵づくりの並ぶ街なみに融合している。新しい都市計画道路からもアプローチできるようになっている。市民の休憩や展示などのために活用されており、まちなみフェスタなどのイベント時には中心的な施設として大いに賑わっている。
3 技術上の問題点など
 この繭蔵の転用再生に当たっての最大の特徴は曳屋である。町の中を通り抜けて、距離約150m、高低差約4.5mを移動する「姿曳(すがたびき)」は滅多に見られるものではないし、難工事であった。地元の曳屋職人が経験を活かして慎重に取り組んだ。蔵の土台を浮かせてその下に枕木を積み重ね、角材でレールをつくって鉄棒をコロにして手動ウィンチを回しながら少しづつ曳いていく光景は、のどかで時代がかった仕事であったが、曳屋技術の継承のためにも大きな意義のあることであった。曳屋には約2ヵ月を要した。
 建築に関する現行法規は、法規施行以前からある古い建物を前提にしていないため、確認申請に当たっては構造面においても防災面においても厳しい局面が多い。とくに土蔵づくりを含む木造伝統工法の構造は冷遇されており、法規上で規定している金物や筋交に依存した工法とは根本的に適合しないことも多いため、補強は容易ではない。木造3階建の場合にはさらに厳しい制約が条件づけられるので、保存すること自体が極めて困難である。今回は3階建の床を一部抜いて吹抜状態にするという妙案によって法に適うようにした。階高の低かった繭蔵を、市民の憩いの空間として活用するために天井の高い吹抜空間としたことは結果的に功を奏したかもしれない。ただオリジナルの持ち味を活かしたほうがよいと判断されるような場合には残念な思いを強いられることも多いのだろうと思う。

(社)日本建築士事務所協会:「建築士事務所」掲載

金鵄会館(長野高等学校旧南校舎)

登録有形文化財申請所見


1概要
 名称      金鵄会館(長野高等学校旧南校舎)
 員数      1棟
 所在地     長野県長野市大字上松一丁目824番地1
 構造      木造2階建 瓦葺屋根
 規模      延床面積  1435.96㎡
 所有者     社団法人金鵄会(きんしかい)   代表 小坂健介(こさか けんすけ)
 建築年代    昭和12年6月23日起工  昭和14年8月竣工
 設計者     三苫繁實(みとま しげみ) 長野県内務部土木課
2所見
 長野県立長野高等学校の前身である上水内中学校(長野町)は明治16年に設立されたが、改称などの変遷を経て、明治32年に長野県立長野中学校となった。明治34年から長野市西長野町に完成した校舎で学んでいたが、昭和10年に校舎移転改築案が長野県会を通過し、翌年に認可されたのを受けて、長野市上松地籍に新校舎が建設された。これが、今日の金鵄会館の誕生の経緯である。
 新校舎は、13,793坪(当時)の広大な敷地の西寄りに配され、木造2階建の教室棟は中庭を囲むロの字型の構成となっていた。北には体育棟等があり、東のグラウンドに面した位置に昇降口と講堂があった。社会の激動のため資材の乏しい時代であったが、本館(南校舎)には欅などの木材がふんだんに使われた。
 中央に配された塔からシンメトリーに両翼を伸ばした南校舎の雄々しい姿は、当時の社会情勢を反映したものとも考えられるが、むしろ長野県教育の気風を象徴的に表現しようとする意図があったものと思われる。南校舎は端部で方向を変えながら中校舎につながっていたが、正面の全長は86.4m(48間)で、教室部分の幅は9.9m(5.5間)であった。一辺9m(5間)角の塔部分は正面玄関で、寄付が突き出している。その壁面は淡い青灰色の薬掛スクラッチタイル貼りで、三列並んだ2階の縦長窓の枠部分やボーダー部分は白色人造石洗出し仕上げとなっており、洋風の趣を感じさせる。この部分の軒高は13mで、5.5寸勾配の方形の瓦屋根が載っている。屋根は1.5m(5尺)の庇を出し、軒先付近にやや反りをつけてあるので、赤茶色の瓦ではあるが、和風の趣を感じさせる。教室部分の軒高は8.7m(推定)で、トラス小屋組の上に、塔部分と同仕様の屋根が載っている。1階部分壁はモルタル塗り、2階部分壁は南京下見板にペイント塗りとなっている。
 その後、学制改革によって長野県北高等学校、長野県立長野高等学校と推移したが、校舎はそのまま使用されてきた。いつしか長野県下の高等学校校舎の不燃化改築が進み、長野高等学校は県下に残された唯一の木造校舎となった。改築計画が浮上した際に起きた保存・改築を巡る論議は学校関係者にとどまらず、社会問題となった。最終的に、グラウンドであったところに最新設備を備えた不燃校舎が新築され、慣れ親しんだ木造校舎は55年間に渡る使命を終え、南校舎のみが残された。南校舎は、平成11年に同窓会館に生まれ変わった。
 現在の建物の外観はほぼ原型をとどめているが、保存に際して以下のような改修が行われた。
  ・校舎両端を9m(5間)ずつ切除されて、全長が68.4m(38間)となった
  ・窓をアルミサッシュに取替えた
  ・外壁板貼り面を全面的に塗装し直した  他
 この建物は、登録文化財にあてはまる建造物の基準の「2.造形の規範となっているもののうちデザインが優れている場合」に該当する。

 長野市:「登録有形文化財申請書」掲載

今井ニュータウン

ルーズな全体性


 私たちのオリンピックストーリーは長かった。長野市で冬のオリンピックを開催したいという小さな灯のような夢はとうとう大きな聖火となった。私たちは一般市民の立場であるいは建築設計者の立場で強い関心をもち、夢の実現のために積極的に協力してきた。国内候補地立候補の段階から「シティー・オブ・ナガノ」の声を聞いた1991年までの数年間は、招致署名活動やアピールイベントなどに取り組む傍ら、立候補に必要な施設計画にも全面的に関わってきた。それに関連して競技連盟やマスコミの協議、カルガリーやアルベールビルオリンピックの視察等に奔走したことを懐かしく思い出す。
 私たちにとっての今井ニュータウンプロジェクトはプロポーザルから始まったと記憶している。オリンピック選手村として利用されることになっていたこの新しい集合住宅団地のためのプロジェクトは、招致に関わってきた長野市の設計者たちにとって主体的にオリンピックプロジェクトに参加できる待ちに待った機会だった。設計工区に合わせたチーム編成によって私たち山口設計事務所、岡沢仁建築設計事務所、関建築+まち研究室は富永譲氏率いるフォルムシステム研究所と協力することになった。氏はすでに熊本アートポリスの団地プロジェクトなどで揺るぎない評価を得ており、私たちにとっても期待溢れるチーム構成になった。四事務所による共同設計というのは初めてのことであったが、チーム内の連携はスムーズだった。電話やファックスによるコミュニケーションは予想以上に大変な一面もあったが、富永氏の真摯な人柄は私たちのチームをまとめていく強い牽引力となっており、その設計手法や造形に学ぶところも大きかった。氏を中心にまとめられた基本設計は複雑多様な与条件に対して、ボイドラーメン構造によって住戸空間のフレキシビリティを高めながら接地階をできるだけパブリックなスペースにした住棟によって中庭を大きく囲みながら快適な住環境を創造するというものだった。実施設計及び現場監理は分担して行ったが、富永氏とそのスタッフによる適切なリードによって滞りなく完了した。
 このニュータウンは全体としてまとまった雰囲気のなかにも変化のある生き生きとした生活環境をつくろうという方針でまとめられている。あらかじめ用意された全体的なコードに沿いながらも各設計者の個性や主張を活かして、画一でも不統一でもない中間的なものをデザインするという手法によって「ルーズな全体性」を実現した。これは計画という人為的な手法のなかで少しでも自然発生的な雰囲気を感じさせるまちをつくろうとするチャレンジであり、集合住宅団地としてトータルな質の向上に大きく寄与している。無機的な公営住宅のイメージを一掃するフレッシュなデザイン感覚は住居者の生活に夢や希望を与えてくれるに違いない。オリンピック選手村としても各国選手から好評を博した。
 私たちが担当して設計した住棟はニュータウンの「ルーズな全体性」のなかの一部を担っているが、視野を広げれば何もないところに新しく建設されたニュータウンそのものも今井ないしは長野市という地域の「ルーズな地域性」形成の一部を担っている。時代性と地域性のバランスをどう扱うかは地方で建築設計に取り組むものにとって大きなテーマであるが、今井ニュータウンのデザイン手法は私たちに新しい展望と期待を与えてくれた。
 私たちのオリンピックストーリーは私たちの中に生き続ける。

長野市:「今井ニュータウン建設記録」1999年3月掲載

K.S.HOUSE

設計趣旨


 「信州」に生まれ育った後、東京・大阪・九州での暮らしを経て再び「信州」に戻り、それから13年が経っていた。恐らくこれからの人生もこの地でずっと過ごすことになるに違いない。新たに自らの住宅を建築するに当たって「信州」の暮しと住まいについて再確認する機会を得た。このように改めて身構えざるを得ないのはそれが建築家にとっての自邸であることに起因しているのであろう。自邸であろうとなかろうと建築としての設計作業に本来変わりがあるわけではないが、建築家の自邸においては現在乃至は今後の自らの設計に対する確固たるマニフェストを表現することが許され、また同時に期待もされている。ここでは絶対的与条件としての「信州」に対して、率直に受け入れていく部分と敢えて想像していこうとする部分に置き換えて再考することとした。
■「信州の環境」への適応
 環境とは自然そのものとしてアプリオリに存在するものであり、人為的に操作できるものではないのでいかに対応するかが重要である。多くの環境条件の中でも寒冷地であることは「信州」特に北信濃の建築にとって避けられない宿命的な命題である。長野市内は多雪地域というよりも低気温地域である。その寒さから身を守り、尚且つ省エネルギーを心掛けることが「信州建築」の基本性能として求められている。そのための直接的な方法として既に一つの手法と化したいわゆる高気密高断熱手法もあるが、ここでは必要十分条件としての気密断熱や自然採光・換気を考えた。
 ☆ 躯体:コンクリート(内断熱・・発泡ウレタン)
 ☆ サッシュ:断熱(アルミ+木複合サッシュ・木製サッシュ・ペアガラス)
■「信州の景観」を超えて
 「信州」という表現は土地的な拡がりを示すのみならず風土や人々の気質や景観に関するメッセージも同時に想起させる。信州の景観といえば山岳や川、田園や民家といったのどかな自然の風景が思い浮かぶが、これは原風景に近い。景観とはその時代と人々の生活の反映である。信州の景観は移り変わり、殊に郊外の住宅団地は急速に商品住宅に埋め尽くされている。それは表面的な調和はとれているものの一元的で景観に対する明確な基準もないまま全国一律の景観に置き換えられている。これが「信州」なのか。次代にふさわしい景観を創りはじめよう。これからは風土や周辺環境に対する安易で希薄な調和を超えて確かな存在感が求められなければならない。ここでは形態と素材によって新しい「信州」の景観の創造を試みた。
 ☆ 形態:ボックススタイル
 ☆ 素材:コンクリート(素地)+木
 ☆ テイスト:無機質+「和」の気配
■「信州の建築」を超えて
 人類のとって建築という行為は極めて崇高な営みであるが、経済活動としての建築においては利益最優先の価値観の中で安直に機能の再生産が繰り返されるばかりでおよそ文化を形成してきたとは言い難い。スクラップアンドビルドに慣らされた社会間は「信州」だけに限られたことではないが、ここでは住まいとしての建築の寿命と、暮しの基本を考えサステイナブル建築としての構造と質を確保した。生き残るものが文化を形成する。
 ☆ 構造:不変外壁(コンクリート)と可変内壁(木軸)
 ☆ シンプル:単純プラン・均質インテリア
 ☆ ハイクオリティ:ゆとりスペース・本物素材・快適設備・堅牢耐久建築

㈱新建新聞社:「新建新聞」1996年5月17日掲載

サニウェイ松本営業所

新築に当って テーマは凛とした存在感です


■設計全体についてのテーマ(コンセプト)は何ですか。
 私は基本的に存在感のある建築をつくりたいと思っています。看板やサインに頼れば存在を知らせることは簡単です。しかしそうした副次的な方法ではなく、建築そのものが存在を認められることによって、その建築に生命が宿るのだと考えています。建築はただ単に住んだり働いたりするための道具ではありません。建築がその寿命を終えるまで溌剌と生きてほしいと思っています。ですからテーマはいつも『凛』とした存在感です。今回は県道拡幅整備に先立って建築するので、その存在を通して新しい通りの沿道景観をリードし得る力を表現できれば良いと思っていました。同時に(株)サニウェイとしても企業アピールにつながるのではないかと考えています。
■弧を描いた設計の主旨と良い点は何ですか。
 弧を描いた壁面は台形の敷地からのインスピレーションですが、存在感を主張するための外観上の大きな特徴になりました。形だけでなくコンクリートとガラスに限定した素材もオブジェ的な効果をつくりだしています。実は工事途中で平面計画は大きな変更を受けました。弧を描いたホールは残ったものの機能的な必然性はやや弱いものになってしまいました。しかしありふれた小事務所ではまず見られない『ゆとりとアメニティ』を感じられる空間は実現されました。
■その他
 よい建築をつくることは私たちの職業上の責任だと考えていますが、決して私たちだけの力でできるものではありません。住宅の場合は家族がどんなライフスタイルを持っているのかによって、また企業の場合は経営者がどのようなビジョンをもって経営に当っているのか、社屋建築を建てることに何を期待しているのかによって私たちが示す回答は変わってきます。このたびの松本営業所は長澤社長さんはじめ皆様方の深いご理解によって出来上がりました。長野本社に引続き素晴らしい機会をいただいたことに深く感謝申し上げます。今後もご信頼に応えるべく頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

㈱サニウェイ:「あさひ」1996年5月1日掲載

TSビル

設計趣旨


■シンプルアーキテクチュア
 長野市は1998年の冬季オリンピックを控え基盤整備が進められており、JR長野駅前地区は商業業務中心としての性格を固めつつある。TSビルはこの地区の一角に位置するので、その立地特性にふさわしい業務拠点としてのクォリティ確保と、長野市を中心に幅広く活躍するグループ企業本社ビル(一部賃貸事務所)としての存在の表出とが求められた。敷地は区画整理地区内にあり、いずれ街並みに埋没してしまうことが予想される。しかし現時点ではまだ周辺環境が整っていないので、まちづくりの視点から今後の周辺環境形成をリードしていく可能性を意識し、凛とした存在感を示していくために「都市のオブジェ」的な造形としながら地区のランドマークとなり得るデザインを模索していった。シンプルとコンテンポラリーをデザインポリシーとし、タイルとガラスを纏った二つの静かで対立的な量塊を並べて立ち上げた。モノトーンでシャープな形姿は取付くしまのない周辺環境の中で異彩を放ち、うるおいを創出するフロントプラザと相まってシックな都市スポットとなっている。
■ハイクォリティオフィス
 約100坪の無柱事務室空間(基準階)を中心に個別コントロールの可能な設備システム等を導入し、ワーカー中心のハイクォリティオフィスとした。また機能的なクォリティ確保に加えて空間的なゆとりも実現した。

(社)日本建築学会:「建築雑誌」増刊作品選集1996年3月18日掲載

長野県長野高等学校

改築の記録


■保存vs全面改築論争から
 長野県内の高等学校は88校あり、校舎は順次不燃化されてきた。長野市内の長野高等学校はついに最後まで取り残されてきたが、改築が近づくにつれてその木造校舎の保存運動が起こった。学校内外での保存・全面改築をめぐる論争が始まり、それに並行して長野市在住のOB建築家数名が有志として集まり協議を始めたが、その中でも一致した方向性を見出すことはできなかった。保存運動は学校生徒、教員から同窓会を中心に展開されていったが、これに対する応援団も登場し論争はいつしか社会的にも大きな問題となっていった。
 私はOB建築家の一人としてこのテーマに関わるきっかけを持つに至ったが、県立高等学校木造校舎の保存という理念が内包するテーマは広く奥深いことがわかってくる。それはストックよりもフローばかり考えてスクラップアンドビルドを繰り返してきた戦後日本の経済や文明構築のあり方・地方の木造建築文化に対する社会的理解や良識の指標・都市の記憶としての景観のあり方・文化面及び資産面からの建築的価値評価・補助金及び会計検査制度に基づく無難で画一的な教育及び建築行政方針・最も重要な基本設計を建築家の感性や資質に頼らず行政内部で処理し、設計図作製の労働力主体の評価から判断して実施設計を発注する公共建築物設計システムのあり方・教育心理面における校舎建築の影響・思い出の学び舎としての時間的存在等に渡り根本的な問題や疑念を投げかけている。個人的には保存の重要性を認識しながらも、技術者としてもう少し客観的視点からキャンパス全体計画を考えるという独自の立場をとるようになった。そして保存に拘束されることなく、よりよい母校を時代に残す方法を多面的に検討して自主的にいくつものマスタープラン(南校舎を残して他棟を改築する案・南校舎を西側道路側に道路に向けて移築して改築する案・グラウンドを整備しながら全面改築する案他)を作製し学校当局・同窓会に対して提案をしていった。後で知らされて苦笑したことであるが、この時点での提案は残念なことに実施設計獲得のための営業活動と勘違いされ日の目を見ていない。
 その後長野県と学校及び同窓会等の協議を繰り返す中から既存校舎のうち南棟のみが保存対象になり、その他の棟は全て除却され東のグラウンドの位置に全面改築の方向で新校舎が建設されることになった。全面保存派は愛想をつかして去っていったが、私が継続して関心と情熱を持ち続けていられたのはこの客観的な姿勢があったからだと自認している。
■新校舎基本設計にあたってのコンセプト 「ゆとりと刺激」
 一般的に公立学校建築は行政が建設して学校が与えられて使用するという形式になっており、改築に先立っての学校に対する意見聴取は形式的に実施され微細な要求が採用されるに過ぎないようだ。全面改築に方針が決まった後も行政の従来式の方法に不安を感じ、引き続き関心を持っていた私と先輩OB(佐藤)の二人は実施設計を長野県から受注する資格を持たないという理由で、学校長からの協力依頼に基づきユーザーとしての学校に協力することになった。このように学校側が専門家の助言を基に行政側と協議するなどということは前例のないことであり、私にとっても当然ながら初めてのことであった。アムステルダムの公営住宅の建替えにあたっても同じような手法がとられていたことを思い出しながら、この新しい方法を活かす手立てを考えた。
 そして長野高等学校生徒が青春時代を過ごす学び舎のあるべき姿を考え、新校舎の建築には「ゆとりと刺激」が欲しいことを提案した。そして行政案とは別にこのコンセプトに基づく学校独自のマスタープランを新たに作製した。これらの案はループ案・枝案と呼ばれ、校内の教科代表の先生方で構成される改築検討委員会に計られ、数十回、数百時間に及ぶ協議を経た。「ゆとりと刺激」を反映しておりユニークであるとの評価を得たが、それに起因する問題もあり、最終的にはこのコンセプトを活かしながら行政案を修正することになった。行政案は平面・立面ともに時代錯誤のアカデミズムを軽薄にまとったような原案であった。新校舎が旧校舎(南校舎)にボリュームにおいて勝るのは明白であり保存の決まった旧校舎が色褪せて見えるのはアンバランスになる。私はこの改築にあたっては「旧校舎に敬意を表する」ことが最優先であると考えていたので、新校舎と旧校舎は調和よりも「対」の関係でならばねばならないことを主張し、21世紀に向けてモダニズムを乗り越えた明るいさわやかなデザインを実現することを強く求めた。非対称の平面と立面・ガラスの昇降口やブリッジ・基壇デザインの中止等はその一部として実現している。また仕上げ材料や色彩の選定の協力依頼にあたっても「対」の関係を基に意見を述べた。
 建設工事は進み、最後に学校のシンボルである「日新鐘」の新しい鐘楼のデザインを担当して私の足掛け8年に渡るボランティア活動は終止符を打った。
■最後に
 長野高等学校校舎改築においては最終的に整備された建築やキャンパスそのものも相当高い評価を与えられると思う。だがそれよりもむしろ長きに渡って難題であった保存vs全面改築の論争の中から新たな方向に向けての英断を下し、基本設計の重要さに気づき手さぐり状態で未経験の分野に取り組み昼夜を忘れて議論し、必要なバックグラウンドを築き上げていった学校長始め教員・生徒・OB等関係者の表面には見えてこないけれども想像を絶する無形の尽力が事前に全てを決していたといってよい。私は母校の改築にあたりこのような形で学校に協力できたことを生涯誇りに思うだろう。
 私は長野高等学校校舎改築という教育環境整備に終始関わった者の一人として、この壮絶なドキュメントを(私個人の活動を中心にせざるを得ないが)何としても書き記しておかなければならないと感じたのである。

未発表

※追記 この時の関係がもとで近くの長野県吉田高等学校の校舎改築に際してもボランティアをすることになっていった。その経緯はいずれ・・

ナガノフィットネス倶楽部F×A・ナガノスイムスクール

設計趣旨


■信州の風土と新木造建築文化の可能性
 日本の建築やまちが急激な工業化の歩みの中で鉄とコンクリートによってつくられ形式的になってきたことへの反省として、地方文化や木造建築が再評価されるようになってきた。新しいタイプの木造建築は最新技術のバックアップによって大きな可能性を秘めたものに変貌しつつある。
 長野県=信州は山国であり、木の文化や林産業のイメージが強い。これからは信州のイメージと結びついた新しい木造建築を育てていかなければならないと思っている。インドアプール等のスポーツ施設も地方における新しい木造建築文化の創造の一翼を担うチャンスを与えられている。
■インドアプールと木造
 インドアプールにおいて塩素ガスによる腐食対策を考慮すると木造架構は最もリーズナブルであるといえる。この計画では施工性を配慮し大断面集成材を採用した。
■木造ゾーンと防火ゾーン
 二つの施設の併設であることと1000㎡以内の防火壁区画が必要であることを考え合わせ、木造のフィットネスゾーンを二つに分けその間に鉄骨の管理ゾーン(防火ゾーン)をはさみこれを外観に生かすことにした。
■三つのフィットネス空間
 主たるフィットネス空間は特徴をもたせるためそれぞれのテーマを設定した。
  ・ 水のフィットネス・・・フィットネスプールはゆったりした時間の流れの中で静かさを感じられるように、低いレベルからの採光によって水面を強調した。
  ・ 木のフィットネス・・・エアロビクスダンススタジオとマシンジムはアクティブな運動を刺激する暖かさを感じられるように、内装を全周囲的に木にして木の材質感を強調した。
  ・ 光のフィットネス・・・スクールプールは賑やかな練習の中で楽しさを感じられるように、テント生地を使用した膜屋根として天井面からの採光を強調した。
■木とインテリア
 大規模木造建築では外壁に木をそのまま表すことは法律的に制約を受けるので、木の材質感はインテリアに生かされる。そして暖かい落ち着いた空間にスポーツクラブらしい刺激を与えるために、スチールドアや階段部分には対比的な原色のペイントを施した。

(社)日本建築学会:「建築雑誌」増刊作品選集1994年3月10日掲載

ナガノフィットネス倶楽部F×A・ナガノスイムスクール

インドアプールと大断面集成材架構


 前身施設である「ナガノスイミングスクール」は長野市では最も歴史のあるスイミングスクールとして数多くの輝かしい実績を築いてきた。しかし既に20年を経過した施設は、施設内容の陳腐化や老朽化が著しくなってきたのは紛れもない事実となった。
 このような状況が全面改築への大きな動機となっているのだが、新施設の計画に際しては、スイミングスクールの機能だけにとどまらず、社会のウォンツに応えてこれまで以上に幅広い社会スポーツの場を提供していくこととし、プールをメインにしてエアロビクスダンス、マシンの基本三要素を完備したフィットネスクラブを併設展開していく方針が考えられていた。
 全面改築へのもう一つの動機は既存施設の鉄骨架構にあった。プールの消毒に使用する塩素によって、むきだしの鉄骨の梁やブレース等が腐食を受け、安全面での早急な対策も迫られるに至っていた。
 新施設の計画は施設規模の研究と構造(架構)の選定からスタートした。フィットネスクラブもスイミングスクールもインドアプールをメインにしているので、構造は塩素ガス対策の面から、木造(大断面集成材)架構を採用することとした。ヨーロッパではパリのアクアブールヴァール(ヨーロッパ最大のインドアスポーツ施設といわれている)等のように木造架構のインドアプールがかなり普及しているようであるが、日本国内ではまだ多くないので、スポーツクラブのアイデンティティづくりの面からも好ましい架構法であると判断した。木造施設に対する建築基準法に基づく制約は多いが、反面スポーツ施設に対する制約はさほど厳しくないので、デザイン的にこの架構と材質感を積極的に活かすことにした。
 集成材架構はプールの特殊事情から全体のコスト配分に優先して採用されることになったが、集成材としてのコストバランスを保つために、アーチ形状のものとせず全てストレート形状とした。この形状だと柱-梁の接合ができることになるが、コスト面での負担はアーチ形状に比べてかなり減る。プールであることを考慮して、接合部の金物は全て亜鉛メッキを施した上で隠蔽納まりにした。ボルト・ドリフトピンの類も木栓によって隠蔽した。
 市街地における大規模木造建築は外部に木部を露出することは法的な制約のため難しい面があり、木造の醍醐味はむしろインテリアに表現される。この施設においては“水のフィットネス”と呼ばれるフィットネスプール、“木のフィットネス”と呼ばれるエアロビクスダンススタジオ+マシンジム、“光のフィットネス”と呼ばれるスイミングプール、とそれぞれ特徴のある空間が実現した。
 場所、規模、用途、経済等の諸条件がそろえば集成材による建築は実現できる。しかし集成材建築の将来に期待を寄せている者の一人としては、集成材を使うこと自体が目的となっているレベルから、自由な空間のイメージと一体化してデザインされるレベルに移っていかなければならないだろうと感じている。

㈱長野県建設工業新聞社:「長野県建設工業新聞」1992年9月4日掲載

1998年長野冬季五輪開催計画

概要書作成出向記―オラァ、東京サ行ってきただ!!


 「明日から又東京行き・・・。この仕事は今日中にやってしまわなくちゃいけない。あの件は間に合いそうにないから留守中に代わりにやっておいてもらおう・・・。」
 留守中の仕事の段取りのことがあれこれと頭に浮かぶ。報告書をまとめて、作業メモを書き終えると、夜中の2時か3時になってしまう。東京へは朝一番、6時過ぎの特急で出発することにしている。この間数時間・・・。在京中に必要なものを準備するためにどうしても家に戻らなければならない。電車に乗るには5時過ぎに起きて家を出なければならない。「起きられるかなァ・・・。」と思いながらも、たとえ一時間でも眠る。目覚し時計が鳴り響くと、動くはずもない体をやっとの思いで起こし、長野駅に向かう。電車に間に合い腰をおろした途端に睡魔がやってきて篠ノ井駅に止まったこともほとんど不覚。JR特急は寝室と化した。検察のためにゆり起こされたりすると、座席の座り心地の悪さに無性に腹がたったりする。
 東京への出向が決まったものの、「東京でベコ飼うダァ・・・。」という訳でもないので、長野での仕事から目を離すことはできない。必然的に週単位で長野-東京間を往復する。先に書いたすさまじい状況は、結果として20週間続いた。
 仕事の内容とは別に、出向自体が持つ精神的、肉体的なストレスがある。仕事のことばかりでなく、主のいなくなる家庭のこと、未知の人間関係への気使い、宿泊所の確保等。世の中にはこうしたことを日常としている人も多いと聞くが、奇しくも同じ状況を実感することができた。貴重な体験ではあったが、後半はかなり厳しかったのも事実かと思う(トシのせいかナ)。
 仕事の面では、質・量共に日常の設計作業の域を超えたものを扱うという観点から、出向者4名(井熊冬季治・大久保靖啓・小山昌伸・関)にとって有益な体験であったと言える。冬季競技場の設計というだけでも充分な特殊性があると思うが、加えてオリンピック会場としての施設に求められる特殊性、施設の後利用との整合性、地域性の表現と先端工法とのバランス等々・・・難題を山積みにしてのスタートであった。
 以前にJOCへの概要書提出に際して各競技施設の計画図がまとめられ、見直しの作業も行われてきていたが、今回は敷地の条件が変わったりより具体的に内容が見直されたりしたので、再度白紙から取り組んだ。カルガリーの施設の視察にも行った。各競技連盟やメディア関係との打合せも回数を重ねられた。参考資料も数多く集められた。それらをもとにしながらプランの検討に入っていった。
 施設の数が多いので、ある程度の担当を決めて進めざるを得ないことではあったが、どの施設も難易度の差は付けがたかった。問題点も共通することが多かった。競技中の運営や動線はどう考えればいいのか、TVカメラや放送席はどこに配置するのか、セキュリティの確保はどうすればよいか、どんな構造にすれば経済的で長野の景観にマッチしたものとなるのか、本設と仮設部分をどこで分けるべきか、宗教や食事の違いにどのように対応するのか、会場を結ぶ交通はどうするのか、全体のデザインのベースになるコンセプトは何か・・・。
 どのように答えを出していったかについて詳細に書くことは不可能であるが、今にして思えば未知との遭遇的な問題によく解答をしてきたと思う。もちろん不充分な点があることも招致しているので、今後の招致活動や建設へのプロセスにおいて更に検討が加えられていくことを待ちたい。
 長野開催が決定すれば、世界に誇れる財産(施設)をたくさん持つことになる。貯金がいくらあっても使い方を知らなければ意味がないように、オリンピック施設も後の活用が大切である。まちづくりとも関連することであり、より深い検討がなされなければならないと思っている。
 この5ヶ月間の経験は筆舌では表しきれないが、一端を紹介させていただいた。

(社)長野県建築士事務所協会長野支部:「かすがい」1990年11月25日掲載

出光佐三公邸-松寿荘-大阪建物麹町ビル

模型づくりの思い出


 建築設計のプロセスにパソコンやCAD等の電子機器が導入されることはすばらしいことだと思う。図面はきれいで早い上にパースだってお任せ・・・。感嘆するばかりである。しかし、そうした思いと裏腹に、うす汚れていても“あじ”ある図面、手をかけて作る模型・・・の方により魅力を感じてしまうのは個人的な経験に起因するところが大きいかもしれない。
 私は大学院を卒業するとすぐに大阪の村野藤吾のもとに出向いて行った。早稲田の大先輩のもとで働くということは、古くさい言い方をすれば「弟子入り」感覚以外の何ものでもなく、丁稚奉公的な仕事から始めることになった。模型づくりもそうしたことの一つであった。私は事務所に在籍中、結果としてかなりの量をこなすことになった。
 実は模型なら学生時代にもかなりつくっていた。自分の課題のものを中心にバルサ材にカッターを入れ窓をくりぬいてペーパーをかけて等々いろいろなテクニックを工夫しながら徹夜を続け頑張ったものだった。それらはプレゼンテーション目的で作られ、写真にとられて課題の図面の一部を飾るものとなった。
 しかし修行先の模型は大きく違っていた。材料も異なり従ってテクニックも異なり、当然つくる目的も大きく違う。全てがエスキース用の模型となった。1/500に始まってやがてモノによっては原寸に至るのであるが、それは村野藤吾が自分の「デザインを練る」ためにつくられるものだった。油土でつくられる模型はオリジナルのスケッチに従ってできるだけ忠実につくられ、やがて村野の前に引き出される。粘土ベラを手にした村野と向かい合わされた模型はまたたく間に形を変えられてしまう。それを元にして再び形を整えていく。この繰り返しであった。関係のない人がその模型を傷つけたら腹の立つことであったと思うが、修行中の若い所員にとって、師とあおぐ人の脇に立ちその手さばきを見ることは、それまでの苦労を忘れさせるに足る心踊る一時であった。そして、やがてその模型が現場の建築として現実のものとなっていった。
 村野の仕事に中で最も苦労している人は現場の人たちだと思う。しかし、模型には模型の苦労があった。それは主に油土という可塑性のある材料からくるテクニック的なものだった。油土を使うのには二つの理由がある。一つは曲面を自由自在につくり出せることであり、もう一つは固定しないイメージを徐々に変えながら固定していくのに都合が良いことである。ある意図のある曲線や曲面をつくることは口でいうほど簡単なことではない。
 私たちが最初につくったのは東京四谷の大阪建物ビル(新建築昭和53年1月号)のファサードの1/10模型であった。ロマネスクをモダンにアレンジしたファサードは私を手こずらせるのに充分だった(最も同時に進められていた箱根プリンスホテルの客室棟の方がはるかに親分面をしていたが・・)。複雑なプレキャストパネルとアルミ型材でつくられる外壁は凹凸が多く曲線や曲面にはずいぶん苦労したものだった。始めのうちは平面をつくることさえ大変だったが次第にヘラや定規や型板を使いこなしていくようになった。
 出光佐三公邸―松寿荘―(新建築昭和57年3月号)の模型も心に残るものだった。三次元であまり法則性のない複雑な形の屋根は単純な方法では対応しきれなくなった。断面のスケッチを頼りに型板をたくさん準備して、それをあてては油土を削ったり付けたりしていった。それでも「違う」と言って叱られたこともあった。(秘話:この模型を私がつくった段階では、二階の庇が垂れ下がり一階の屋根につながっていくというアクロバットがあったのだが、実際には実現しなかった。)
 大学や大学院を卒業して油土まみれになっているなんてカッコ悪い、というのが今時の若い学生の共通した感覚かもしれない。しかし、模型にしても図面にしても手を動かすことを教えられてきた私には、むしろそのカッコ悪さがカッコ良く思えるのだが最近は時間がなくて充分なことができないのが辛い。
 今となってみれば、取るに足らない内容で恥ずかしいが目の保養にしていただければ幸いである。

(社)長野県建築士事務所協会長野支部:「かすがい」1989年10月25日掲載